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2018年1月6日、ドラゴンズパックの日帰りバスツアー 「湯ったり 奥三河湯谷温泉 湯の風HAZUで正月」に参加。 【旅程】 新瀬戸(瀬戸信用金庫本店前)7:30→名古屋瀬戸道路 長久手IC→ 東名高速道路上郷SA 8:30-8:40)→豊田JCT→新東名高速道路 → 新東名高速道路 長篠設楽原PA(9:15-9:30)→ 鳳来山東照宮・鳳来寺(参拝10:00-11:40)→湯谷温泉 湯の風HAZU (温泉入浴4・昼食11:50-14:50)→道の駅「もっくる新城」 (買い物・つきたてのお餅賞味 15:10-15:50)→新東名高速道路 新城IC→ 新東名高速道路 NEOPASA岡崎(買い物 16:25-17:00)→ 名古屋瀬戸道路 長久手IC→バロー瀬戸西店→菱野団地→新瀬戸(17:45) 天竜奥三河国定公園内の鳳来寺山(標高695m)の7合目付近の 山頂駐車場(標高500m)に観光バスが駐車し、ここから散策。 昨年(2017年)のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」ゆかりの 鳳来寺は以前から行きたいと思っていた場所。 鳳来寺本堂近くで、表参道から1,425段の石段を登ってきた若い社会人の 男性に会って所要時間を尋ねたら約40分とのこと。又、鳳来寺奥の院(海抜621m) へ行こうと思ったが、本堂近くの東海自然歩道がものすごい傾斜で、奥の院へ 行くのをあきらめた(本堂から奥の院まで約800m)。別の人に尋ねたら、 東海自然歩道を通らないで、横から緩やかな坂で奥の院へ行く方法がある、 とのこと。しかし、時間も迫ってきて、奥の院行きはあきらめた。また、 本堂近くから表参道の石段を下りて仁王門へ行こうと思ったが、やはり急な 傾斜であきらめた。 鳳来寺と鳳来山東照宮は廃仏毀釈の影響を受けなかったようで、併存している。 日本三大東照宮とは鳳来山東照宮、久能山東照宮、日光東照宮。 日本四大東照宮だと、群馬県の世良田東照宮も含まれる。 鳳来寺山散策路にある「鳳来寺と井伊直政」の説明版に次のように書いてあります: 井伊直政(幼名:虎松)は永禄4年(1561年)に井伊直虎の元許嫁である直親の子として 生まれました。永禄5年(1562年)に今川家の家臣により直親が殺されると、虎松は直虎 と共に命を狙われる立場となってしまいました。このため二人は城を出て龍潭寺に身 を寄せたものの、龍潭寺にも危険が及んでいることを察し、虎松は「殺生禁断の地」 として知られていた鳳来寺に預けられることとなりました。こうして8歳から14歳 までを鳳来寺で過ごした虎松は、寺の僧侶たちにより武将として必要な教養を学び ました。その後、徳川家康に仕えた虎松は、万千代、直政と名を改め「井伊の赤備え」 を率いて活躍し、徳川四天王と呼ばれるまでの大出世を遂げました。 はづグループのホテル・旅館5つの内の一つ「湯の風HAZU」で入浴と昼食をとった。 午後1時に男性と女性が浴場「馬の背湯」と「落ち葉の湯」を入れ替え入浴した。 私は両方の湯に入浴。色はやや茶褐色で、泉質はナトリウム・カリウム・塩化物泉 で肌にひたっと吸い付くような感じで気持ち良かった。 「落ち葉の湯」は全部露天風呂で「馬の背湯」は内風呂と露天風呂がある。 小さい露天風呂は源泉かけ流し、その他は源泉がフィルター濾過後、循環されている。 加水はされていない。 写真説明の関連項目には【注】へのリンクを張りました。 【注】 1長篠設楽原の合戦概要(出所:http://www.shinshiro.or.jp/battle/gaiyo-index.htm) 天正3年4月5日、武田勝頼は1万5千の軍勢を率いて甲府を出馬し、兵わずかに5百 人の奥平貞昌が守る長篠城を包囲した。武田軍の猛烈な攻撃により落城を目前にし、 救援の使者鳥居強右衛門は強固な包囲網を破り、岡崎に走り使命を果たした後、 城に戻ろうとして捕らえられ磔になった。これに対し織田・徳川連合軍は、3万8千の 大軍を設楽原へ繰り出し、馬防柵を拵らえ、専ら防戦の構えを見せたため、武田軍は 長篠城包囲軍三千の兵を残し、主力は寒狭川を渡り設楽原へ進攻した。設楽原は 連吾川に沿った帯状の湿地があり、梅雨で一層ぬかるみとなっていた。この地を挟み 東に武田軍、西に連合軍が対峙した。武田軍は天下に誇る伝統の騎馬軍団、連合軍は自慢 の鉄砲3千挺を最前線に配備し両軍は開戦の態勢を整えた。時まさに天正3年(1575年) 5月21日(太陽暦7月9日)であった。朝霧立ち込める午前6時頃、鳶ケ巣山奇襲を合図に 静寂を破る武田軍の鬨の声と、迎え撃つ連合軍の轟然たる銃声で戦端がきられた。 武田軍は先ず馬防柵の突破口を探り、左翼隊は勝楽寺前で徳川軍に、右翼隊は丸山砦 で織田軍に突撃した。ついで中央隊が加わり攻防が繰り返される中、八剣前では遂に柵 を突破した。しかし、果敢に攻撃して緒戦優位を保った武田軍も、間断なく飛び来る 銃弾で、数々の名将と兵馬を失い、8時間に及ぶ交戦の末遂に敗れ去った。この戦い で、武田軍の戦死者は1万余人、連合軍の死傷者も6千人を下らなかったという。 2鳳来寺山(出所:ウィキペディア) 愛知県新城市鳳来寺にある山である。 旧火山帯の南端に位置する死火山であり、標高は695m。「声の仏法僧(ブッポウソウ)」 (コノハズク)が棲息していることや紅葉の名所として、更に鳳来寺があることで 知られる山である。鳳来寺の本堂へは、山麓から伸びる石段(1,425段)や元有料道路 鳳来寺山パークウェイがある。登山道は、門谷からの表参道の他に大野からの 東海自然歩道、湯谷温泉から湯谷峠への道がある。 1931年(昭和6年)に国の名勝及び天然記念物に指定され、2007年(平成19年)には 日本の地質百選に選定された。山には、日本一高いとされていた樹齢800年以上、 樹高約60メートルの「傘杉」(かさすぎ)がある。1935年6月7日・8日の両日に渡り、 名古屋放送局は鳳来寺山でブッポウソウ(コノハズク)の啼き声を夜間生中継する ことに成功。これをきっかけに「声の仏法僧」コノハズクと、「姿の仏法僧」である ブッポウソウの食い違いが学術的に解明されただけでなく、鳳来寺のブッポウソウの 声が名物として広く知られることになった。 3鳳来山東照宮 (愛知県新城市)(出所:ウィキペディアなど) 主祭神 徳川家康(東照大権現) 合祀「鎮守三社」と称される山王権現、熊野権現、白山権現 鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう)は、愛知県新城市の鳳来寺山に鎮座する神社 である。正式名称は「東照宮」。日光・久能山と並ぶ三大東照宮の1社を称している。 慶安元年(1648年)4月、日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、 徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受けた江戸幕府3代将軍家光が、 鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、 阿部忠秋や太田資宗に命じて造営事業を進めたが、志半ばで薨じたため、跡を継いだ 4代将軍家綱が太田資宗や本多利長、小笠原忠知等に命じて慶安4年(1651年)に社殿が 竣成、同年9月17日に江戸城内の紅葉山御殿に祭られていた「御宮殿」(厨子)と神体である 「御神像」(神像)を遷祀したのが創まりである。遷祀に際しては盛大な遷座祭が斎行され、 将軍家綱から、家康が関ヶ原の戦いで帯刀したという太刀が神刀として奉納されたほか、 諸大名からも太刀や灯篭などの奉納があったという。以後、鳳来寺を別当寺と定め、明暦2年 (1656年)には幕府から社領470石の寄進があり、江戸時代を通して10回に及ぶ修理が 幕府により行われている。 4鳳来寺(出所:ウィキペディアなど) 鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の 寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来。参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光 によって建てられた仁王門は国の重要文化財である。また、愛知県の県鳥であるコノハズク (仏法僧)の寺としても有名である。 寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から 本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の 病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、 鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、 天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。 703年勅命により仙人が鳳凰に乗って御所に参内し、文武帝の悩みを直したので天皇が この山にお寺を建て「鳳来寺」としました・・・ 利修仙人は鳳凰や龍を乗り回したとか、赤鬼・青鬼・黒鬼を使役したとか、309歳まで 生きたとか・・・いろいろな伝説が残っています〜 鳳来寺の伝説 〜 家康の出生は1542年12月26日の寅の刻(午前5時頃)であったとされるが、鳳来寺では 家康誕生と時を同じくして、薬師堂の本尊である薬師如来を守護する神像が一体忽然と姿を 消し、家康が亡くなると神像もひとりでにもとの位置に戻っていたといい、以来、家康は神像 (真達羅大将)の化身であったと伝えられている〜 奥の院 鳳来寺境内の一番奥の建物 開祖(利修仙人) 霊仏(薬師如来)が祀られています 海抜621mのこの静寂な地で多くの修験者の修行の場となりました〜 5馬の背岩(出所:新城市のホームページ) 豊川の支流、宇連川の湯谷大橋から全貌を見ることができます。幅5m、長さ122mにわたる 安山岩の岩脈で、河床を作っている周囲の凝灰角礫岩より緻密で硬いため、川の中央部に 馬の背状に盛りあがって残り、その形から「馬の背岩」と呼ばれています。おおよそ1500万年前 に奥三河地域一帯で大規模な火山活動がありました。その後半、断層運動でできた南北の 大地の割れ目が無数にでき、そこに安山岩質の溶岩が次々と流れ込みました。岩石の中で 急に冷やされた溶岩は板状に固まり、その後の長い浸食で周囲の岩より硬い所では岩脈や 岩床として尾根や滝をつくっていきました。宇連ダム周辺には、数キロにも及ぶ岩脈が いくつも存在します。「馬の背岩」は規模からすると小型の部類になりますが、湯谷という観光地 のひときわ目立つ場所であるため、多くの人が訪れることができる岩脈です。昭和9年に、 国指定天然記念物に指定されています。 ●神仏習合の意味(出所:https://en-park.net/words/7384) 神仏習合とは、日本に元来あった神様の信仰である神道と、外国からやってきた仏教の信仰 がひとつになった宗教の考え方で、奈良時代に始まったものです。日本には元来神様が 存在しました。自然の中にも神様がいたり、朝廷にも神様がいました。仏教が伝来したとき、 仏教の仏もまた、日本古来の神様の一人として迎えられたという歴史があります。 そこで神社に神宮寺が建設され、神前読経が行われるようになりました。明治政府が 神仏分離政索をとるまでは、日本では仏教と神道の区別は特になされなかったともいえます。 仏教は、悟りを開くという大きな目的を持ちますが、同時に仏によって救済され、救われたい という、現世利益を求める考えにもつながりました。民間信仰として庶民に仏教が根付いた 理由でもあります。これは神道の考え方にとても近いものがあります。また救済の概念は、 護国、鎮守として朝廷や貴族にも保護されていきました。 ●神仏習合の実際(出所:https://en-park.net/words/7384) 江戸時代後半には、国学の研究が盛んになりました。同時に神道の地位が向上します。 ここで神仏分離思想が強まります。明治維新後は、政府が神仏判然令を発し、これをもって 神仏分離となりました。廃仏毀釈運動がおこり、それまで神社の中にあった寺院や仏像が 破壊され、多くの貴重な文化が失われました。廃藩置県に伴い、寺社領は没収され、 財政基盤がなくなった寺院は廃寺になりました。国家祭祀の施設として神社は政府の管理下 に入りました。第二次世界大戦後は、神道は国家祭祀のためのものではなく、一宗教となり、 現在へと続いています。 ●日光東照宮(出所:日光東照宮ホームページ) 日光東照宮は、元和(げんな)3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした 神社です。家康公は、天文(てんぶん)11年(1542)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)で ご誕生になり、幼少より苦労を重ね戦国乱世を平定され、幕藩体制を確立されました。そして、 世の中に秩序と組織を形成し、学問を勧め産業を興し、江戸時代260年間にわたる平和と文化 の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。家康公は、元和2年4月17日駿府城 (静岡県静岡市)で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言 により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。 正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに 東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれる ようになりました。 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい) 13年(1636)に造替されたものです。 ●久能山東照宮(出所:ウィキペディア) 久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である。 晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に 埋葬された。江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした 諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが 完了した。 2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年 (平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。 ●世良田東照宮(出所:ウィキペディア) 世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社である。 「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。1617年(元和3年)に 駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に 建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。 太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。 |
東名高速道路上郷SA |
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新東名高速道路 長篠設楽原PA(注1参照) |
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鳳来寺山(注2参照)の鏡岩(中央)と鳳来寺の本堂(右)と鐘楼(左)を望む
鏡岩基部はガラス質のデイサイト、本体は主に松脂岩化した塊状の流紋岩から できている。鳳来寺山は古くから山そのものが信仰の対象となり、やがて修験者の 聖地、真言・天台の密教の道場として栄えてきた。1931年に国の名勝天然記念物 に指定され、2007年に日本の地質100選に選定されました |
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地蔵のような石像が中央に見える |
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地蔵のような石像が中央に見える(ズーム) |
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鳳来山東照宮(注3参照)への石段 |
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番所址 (出所:鳳来山東照宮の説明板) 鳳来山東照宮の石段横に東照宮の番所があった。東照宮を直接参拝するには 通行手形が必要でした。通行手形を持っている人だけが、番所で紙の緒の草履 に履き替えて石段を上って参拝しました。参拝に訪れた人々のほとんどは東照宮 の社を想像しながら、ここからお参りしました。 |
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鳳来山東照宮の拝殿 松平広忠の夫人伝通院於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願して家康が生まれた と伝えられ、その因縁により3代将軍家光が造営し、日本の三東照宮の一つとなっている |
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鳳来山東照宮の手水舎 |
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鳳来山東照宮から鳳来寺本堂へ行く途中の公衆便所 |
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鳳来寺本堂(注4参照)の近くの狛犬 (武運に恵まれた家康公のおかげを受けようと、出征将士のために狛犬を欠かし、 弾丸除けの御守りとして戦地へ持って行ったため、狛犬はだんだん丸くなってしまいました) |
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鳳来寺本堂 (鳳来寺は真言宗五智教団の本山。本尊は薬師如来で、 薬師信仰と山岳修験道の霊山として信仰を集めた) |
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鳳来寺本堂前の休憩所からの景色 |
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鳳来寺本堂前の休憩所からの景色 |
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鳳来寺 開山堂(鳳来寺鎮守堂) |
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鳳来寺 開山堂(鳳来寺鎮守堂) |
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鳳来寺奥の院へ行くための東海自然歩道(傾斜が急で奥の院はあきらめた) |
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鳳来寺山表参道、と書いてある。 (鳳来山東照宮と鳳来寺を一括して「鳳来寺山」としているようだ) |
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鳳来寺山表参道の石段(石段が急で仁王門へ行くのをあきらめた) |
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表参道から鳳来山東照宮へ向かうときに目にする石段 |
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鳳来寺の庫裡?(鳳来寺本堂から鳳来山東照宮、山頂駐車場へ帰る途中) |
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鳳来寺宿坊 |
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宿坊を後ろにして山頂駐車場への散策路から奥三河の山並みを望む |
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ホテル「湯の風HAZU」の正面 |
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「湯の風HAZU」での昼食 |
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「湯の風HAZU」での昼食(デザート) |
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「湯の風HAZU」の前の吊り橋「浮石橋」 |
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「浮石橋」の西にある「馬の背岩」 (宇連川にある安山岩の岩脈のうち川の中央部に馬の背状に盛りあがった岩;昭和9年に、 国指定天然記念物に指定)浮石橋 と 馬背岩 の間にある落差1m程の滝は「湯谷の小滝」 |
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「馬の背岩」(注5参照) |
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吊り橋の東(宇連川の上流)の岩の中央が開いて水が流れ落ちている。 幅約20m、落差4m程の「湯谷の大滝である」 |
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湯の風HAZU」のテラスから吊橋や宇連川を望む |
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お薬師様(薬師如来)の石像 (出所:現地説明板) この瑠璃嵒山(るりがくさん)薬師如来の石像一体が奉安(ほうあん)されたのは、寛政12年 (1800)5月で鳳来寺の歇堂(けつどう)という人が頌(じゅ)(たたえる文章)をつくっていうのには 「この石の尊像は、薬師如来の徳性がそのままあらわれている。そして財資を施す者は、 福徳、智慧、寿命が限りなからしめんと誓願されている お参りする者には、この功徳がある。 鳳液霊泉は、ますます玉のように湧き、これに浴するものは、病がたちどころになおるだろう。 鏡智(佛の智慧)が生きとし生ける者にご利益を与えようとしている」と述べられている。 |
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2016年・2017年の
東栄町世界チェーンソー大会(毎年5月下旬開催) において、2時間制限の中で誕生した作品 |
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ホテルのロビーにある木彫りの熊 |
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道の駅「もっくる新城」 (手前右の建物は足湯の場所) |
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「もっくる新城」で餅をついている所 |
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つきたての餅をきな粉に付け2個食べた |
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