六角陶碑の説明 Rokkaku Touhi (hexagonal pottery monument) (written on Sep. 30, 2014) |
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1 出所:六角陶碑の説明パネル 瀬戸市指定有形文化財(工芸) 六角陶碑 1基 構造 陶器製 (志野釉ほか)・六角柱形 製造年月 慶応3年(1867)9月 製作者 加藤岸太郎 規模 高さ 4.1 m この碑は、瀬戸村に伝承されていた陶祖藤四郎の陶業の功績を称えるために 当時瀬戸窯取締役だった加藤清助景登(かげと)らの尽力で建立された 日本最大級の陶器碑です。 文章は尾張藩士で漢学者であった安倍伯孝 (みちたか)が執筆し、幕末の名工であった加藤岸太郎が中心となり 成形・焼成を行っています。紋章(下がり藤)・唐獅子(からじし)等の 陽刻は陶彫の名工渡辺幸平(こうへい)が行っています。 陶碑製作にあたっては、瀬戸川の北側に位置する北新谷(きたしんがい)の 丸窯の中で造り、焼成後に窯の入口を壊して取り出し、コロを用いてこの 藤四郎山まで運んだと伝えられています。基部から三段の台が積み上げられ その上に碑文の刻まれた六角柱形の碑棹(ひたく)等を配置し、天蓋(てんがい) は屋根状をなしています。碑棹の高さは3.3mで、薄く志野釉が施されています。 指定年月日 昭和49年(1974)4月1日 瀬戸市教育委員会 2 出所:道元禅師と陶祖の説明パネル 道元禅師と陶祖 日本曹洞宗の開祖である道元禅師は、1223年、建仁寺(けんにんじ)の 明全禅師(みょうぜん)ほか数名とともに宋へ渡航しました。この時に 道元禅師の従者として陶祖・加藤四郎左衛門景正が入宗したと伝えられて います。そして道元禅師は、明州慶元府(みんしゅうけいげんふ)(現在の 寧波市、広州・泉州とともに宋代における三大貿易港の1つ)に到着し その後、天竜寺の無際了派(むさいりょうは)禅師のもとで修行を始めました。 ここは日本臨済宗の開祖である栄西(えいさい)禅師が留学していた 場所でもあります。道元禅師は天童山での修行の合間をぬい、二度にわたり 中国国内諸山歴遊の旅に出ています。 その旅では、杭州の径山寺(きんざんじ) や浄慈寺(じょうじじ)などを訪れています。1225年には、天童寺の住職 になった如浄(にょじょう)禅師に弟子入りし、以降日本曹洞宗の基礎となる教え を受け、悟りを開きました。1227年に帰国し、1246年に永平寺を開山しています。 また陶祖は、道元禅師が修行している間、瓶窯や天目山などで陶器製法を 学んだと伝えられています。 3 出所:六角陶碑の内部の説明パネル 六角陶碑の内部 六角陶碑の内部については、建立後一度も調べられたことがなく、残されている 記録などから、その中には法華経の経文が一文字ずつ書かれた石が詰まっている と伝えられていましたが、その詳細は不明のままでした。 そして陶祖800年祭にあわせ、2013(平成25)年に、建立して約150年 経過して初めて内部調査を行いました。六角陶碑の最上部の傘の部分に はめ込まれた直径約35センチの陶製の蓋を取り外すと、内部には、上部まで ぎっしり小石が詰まっていました。この小石を取り出したところ、小石には 記録通り法華経の経文と思われる文字が一石に一文字から十数文字、墨書き されていました。 法華経全文が約6万9千文字あることから、3万石以上が この六角陶碑の中に入っていると推測されます。 濃尾地震や東南海地震でも 被害がなかったのは、この石によって免震構造になっていたからだと 考えられます。 4 出所:六角陶碑の覆堂の説明パネル 1867(慶応2)年に六角陶碑が建立され、現在の覆堂ができるまでの約100余年 六角陶碑を覆うものはなく雨ざらしでした。貴重な郷土の文化財であり、陶都瀬戸 のシンボルである六角陶碑が朽ちることを心配した伊藤清春氏(元 瀬戸陶磁器 事業協同組合 (現 愛知県陶磁器工業協同組合)理事長)が、「六角陶碑の覆堂」 の建設資金の寄付を瀬戸市に申し出、その寄付金により建設が行われ、1969 (昭和44)年12月10日完成しました。 この覆堂は、当時の名古屋工業大学城戸久(きどひさし)が、平泉にある中尊寺 金堂に習い保存・美観・耐久性を重視し、六面癖の寄せ棟、螺旋状階段により それぞれの高さで六角陶碑が拝観できるよう設計されたものです。 2014(平成26)年、陶祖八百年祭にあわせ、覆堂の壁面にガラスウオールや ガラスブロック壁を加えることで採光を増やし、六角陶碑を見学しやすくする とともに、外側からも見学することができるように改修しました。 5 出所:碑文の訳文の説明パネル 碑文の訳文三-一 陶祖の姓は藤原、名は景正、加藤四郎左衛門という。別号を春慶または俊慶、 追称を陶祖という。祖父は橘知貞(ともさだ)、大和国諸輪荘道陰(もろわのしょう みちかげ)村の出である。知貞の子は元安で、元安の子が陶祖である。元安は 罪があって備前(岡山県)に流された。 母は平民で、山城国深草の道風の 娘である。陶祖は幼少の時から土いじりを喜び土器を作った。彼は常に中国の やきもののように巧みにできないのを恨んだ。中国におもむいてやきものの勉強 をしようと志してから既に長く、大納言久我通親に仕えていた。通親の第二子 道元(曹洞宗開祖)が宋の国へ渡るのに従うことが遂にできた。時は嘉定16年 (1223)であった。宋に留学すること、およそ6年で帰った。帰着したのは 肥後国川尻で、中国から持ち帰った土で小壺3個を作り、副師の北条時頼 (ときより)と道元に贈呈した。陶祖が日本に帰ったのは26歳の時であった。 ついでにいうと、父はまだ備前にいたので、ここに留まって製陶した。 母は深草にいたので訪ねていったが、時ならずして死亡してしまった。 6 出所:碑文の訳文の説明パネル 碑文の訳文三-二 そこで、京都・畿内やその付近で陶器の試し焼きをし、また尾張国の山田郡・知多郡 でも試し焼きをしたが、みな結果はよくなかった。ついに山田郡瀬戸村の祖母懐の地を 見、その土質は中国から持ち帰ったのと同じであることを知った。そこで、ここに 陶業を開き、一生故郷へは帰らなかった。 また、別人の説では、陶祖の祖母が良土を瀬戸の天池の洞で得て、これを懐に入れて 持ち帰ったということから祖母懐というわけである。さらには祖母懐とは、陶祖が 瀬戸村神社の深川神に祈り、夢によって知らされて発見したものであるともいう。 瀬戸村についての古書物を調べると、山田郡、今の春日井郡は上世には良いやきものの 産地であった。 即ち、日本後紀・延喜式。和名抄・朝野群載などの書によると、 当時朝廷は瓷器(しき)を作らせていたが、多分これは山田郡であったのであろう。 時代が下って陶祖もまたこの事績を聞いていたので、これらの功績を挙げえたので あるという。 7 出所:碑文の訳文の説明パネル 碑文の訳文三-三 陶祖の宅址(たくあと)は中島という。その宅地は瀬戸村深川神社東辺の田んぼ の中で、そこには杉一本がたっていたとしるされている。また、その北に禅長庵 の地といわれる所がある。 伝説によると陶祖は晩年家事を子供にまかせ、別に 妻と庵をむすんだ。 これが没した地である。陶祖の没年は諸書に誌されていない。 墓は五位塚で、その左の馬ケ城という地内には古い窯がある。今はその馬ケ城に、 陶器の手づくりを続ける者は残っていない。ただし村に獅子が一揃いある。 伝えによれば藤四郎の作である。その後、村民は藤原姓で、藤四郎の末裔である。 村民は協力して藤四郎を祭祀し、これを陶彦社(すえひこしゃ)またの名を窯神 とし、例祭は3月、8月の19日で、3月は戯獅子(ぎじし)、8月は馬を走らせている。 藤四郎の子は藤五郎、孫は兎四郎、以下の者も陶業を先んじておこなった。 慶応2年(1866)丙寅2月 尾張 安倍伯孝撰 8 出所:献納祭器窯址之碑の説明(陶祖公園の六角陶碑の北の敷地にある) 献納祭器窯址之碑 昭和16年(1941)11月建立 昭和15年(1940)6月10日橿原(かしはら)神宮において「紀元2千6百年祭」が執り行われ ました。この祭典に使用された祭器の製作は瀬戸陶磁器工業組合に下命され、 この公園内に窯を築き、祭器を焼き上げ、橿原神宮に献納しました。 その後、窯は取り壊され、この窯址に碑が建てられました。 愛知県知事 相川勝六 謹書 撰者(せんじゃ) 永塚楽治(窯業学校校長) 9 出所:「瀬戸公園」園名碑の説明(陶祖公園の六角陶碑の北の敷地にある) 「瀬戸公園」園名碑 明治43年(1910)、瀬戸市では市を挙げて「春慶翁700年祭」が行われています。 この時に六角陶碑周辺の「瀬戸公園」の整備を行いました。この園名碑は、 当時、公園の入口に設置されたものです。 *呼称は違いますが瀬戸公園と陶祖公園は同じです。 |