瓶子陶器窯跡Ruins of Heiji Pottery Kiln
(Photos taken on July 26, 2015)
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瀬戸市域では、これまで小長曽(こながそ)陶器窯跡のみが国指定史跡でしたが、2015年6月19日の国の
文化審議会において、新たに瀬戸市凧山町の瓶子(へいじ)陶器窯跡(江戸時代前期)を国指定史跡とし、
2つの遺跡を「瀬戸窯跡」としてまとめるとする答申がなされました。【出所】広報せと2015年7月15日号

2015年7月26日、この瓶子陶器窯跡についての見学会に参加。(財)瀬戸市埋蔵文化財センターの方
の説明は丁寧でした。窯跡付近にたかれていた蚊取り線香のお陰で蚊に刺されなくて助かった。

<瓶子陶器窯跡の場所など>
瀬戸市凧山町(赤津地区のほぼ中央)の市有地にある。「せと赤津IC西」交差点を北へ県道22号を
約1kmの所に位置。道路工事中で通常は立ち入り禁止。

17世紀中頃〜末にかけて操業された2基の連房式登り窯と工房跡が標高200m位の凧山町の丘陵の
斜面に発見された。

<当時の赤津地区の様子>【出所】瀬戸窯跡 瓶子陶器窯跡 現地見学会の概要書
鎌倉時代(1185-1333)から戦国時代(1467(1493)-1590)にかけて赤津地区の山間部では「古瀬戸」と
呼ばれる施釉陶器や山茶碗を焼いた窟窯(穴窯)・大窯が数多く見られます。しかし16世紀後半
陶工のほとんどが美濃窯に移動
し[作者注:戦乱を避けるため瀬戸を離れた。いわゆる「瀬戸山離散」]、
赤津のみならず瀬戸窯全体の生産活動が確認できない期間があります。その後[作者注:離散約20年後]、
慶長15(1610)年に名古屋築城が始まると、尾張藩により陶工が瀬戸・下品野に呼び戻され再び
窯業生産を活発に行うようになります。中でも、旧赤津村では藩の御用も務めた「御窯屋」(加藤利右衛門・
仁兵衛・太兵衛)も所在し、尾張藩との結びつきが強い生産地である点も特徴的です。赤津地区の
江戸時代(1603-1868)の窯跡は赤津盆地を北から西側に囲む丘陵斜面[作者注:いわゆる赤津村の
中心部
]に立地し現在の集落・陶磁器工房の中心部とも重なる例がほとんどですが、瓶子陶器窯跡は
その盆地対岸に位置し、やや特異な立地となっています。

 

説明会会場入口
瓶子2号窯
「瓶子2号窯 擂鉢(すりばち)出土状況」と説明版に書いてある
瓶子1号窯
<東側;
瓶子1号窯から発見された陶器
工房跡