![]() |
高野山〜金剛峰寺 "Kouyasan" Sacred Mountain - "Kongoubuji" Temple (Photos taken on June 24, 2013) |
2013年6月24日曇り空の下、日帰りバスツアー 「高野山公認ガイドがご案内! 世界遺産高野山をじっくりめぐる」 <クラブツーリズム滑驩謗タ施>に参加。 名古屋駅北側のエスカ地下街に集合し、7時30分、バスは名古屋を 出発。1時間〜1時間30分毎にトイレ休憩の為、ドライブイン、 サービスエリア、道の駅に停車。 <往路> 名古屋駅北口7:30→名古屋西IC→名阪関ドライブイン8:30 →道の駅「針テラス」9:40(写真)→郡山IC(京奈和道) 10:10→ 紀北かつらぎIC南11:20→道の駅「紀の川万葉の里」(写真)→ 高野山赤松院13:00(昼食) <復路> 高野山 大門16:30→道の駅「紀の川万葉の里」→ 名阪上野ドライブイン19:30→大山田SA(東名阪道) 20:45→ 名古屋駅北口 21:20 <参詣順序> 赤松院(精進料理を昼食)(1時間)→@奥の院(1時間)→ 金剛三昧院と多宝塔(25分)→金剛峰寺(15分)→ A金堂、B根本大塔(35分)→大門(15分) と高野山公認ガイドの案内で巡った。 *( )内時間は推定滞在時間 大門<金剛峯寺大門(だいもん)>から奥の院まで歩いて参詣するのが 自然だが、ツアーの時間制限により、中の橋付近まで観光バスで行き、 ここから歩いて奥の院へ。 <お薦めの場所> 高野山は標高1000m 温度17℃の環境にあり夏は快適である。 高野山には117ヶ所の寺があり、その多くは宿坊となっている。 また、お寺以外に沢山の重要文化財もあり、見たいが、全てのお寺の参詣や 重文を見ることは日帰りでは不可能。 従って、最も重要と思われる次の@〜Cのポイントを巡ることを推奨します。 @奥の院(空海がおられる;御廟ともいう) A金堂<高野山の総本堂> B根本大塔<空海が高野山を開創するにあたり、この塔を真言密教の 根本道場とした。奥之院と並んで、高野山の中で最も神聖な場所> C御影堂(みえどう)<本尊 弘法大師; 大師が弟子等と共に念誦された持仏堂。 大師の弟子真如法親王が大師御入定前に写された御影を安置。 御廟と共に山上で最も尊厳を尚(たっと)ぶお堂> <ツアーのおみやげ> 高野山名物ごま豆腐・腕輪念踊・長寿箸 <ツアーの食事> 【昼食】精進料理 【軽夕食】柿の葉寿司5ヶ(鯖・鮭) |
道の駅「針テラス」 | 道の駅「紀の川万葉の里」 |
![]() |
![]() |
赤松院の山門 | 赤松院の山門(赤松院内側から撮影) |
![]() |
![]() |
赤松院での昼食(精進料理) | 赤松院の<重文の「狩野法眼元信の掛け軸」 木彫之虎(中央) 菊花石(左)> |
![]() |
![]() |
襖絵<赤松院> | 掛け軸と象の置物<赤松院> |
![]() |
![]() |
阿弥陀如来来迎のレプリカ<赤松院> | 襖絵<赤松院> |
![]() |
![]() |
赤松院 | 赤松院 |
![]() |
![]() |
奥の院への参道 <奥の院境内は撮影禁止> |
金剛三昧院の鐘楼門(毘張尊) 文政年間(江戸時代後期)に建立され、 門額には毘張尊(びちょうそん)と書かれている。 門の中にある鐘楼は重要文化財指定 |
![]() |
![]() |
金剛三昧院と西国愛染明王霊場の立札が かかっている鐘楼門 |
金剛三昧院の説明板 <備考1参照> |
![]() |
![]() |
国宝「多宝塔」(世界遺産) <備考2参照> |
金剛三昧院の本堂 <備考3参照> |
![]() |
![]() |
金剛三昧院 | 金剛三昧院の本坊(重文) |
![]() |
![]() |
金剛三昧院の本坊(重文) | 金剛峯寺の駐車場付近 |
![]() |
![]() |
金剛峯寺の駐車場付近 | 駐車場から金剛峯寺の参道を見る |
![]() |
![]() |
金剛峯寺の参道と山門 | 金剛峯寺の主殿 |
![]() |
![]() |
金剛峯寺の主殿 | 金剛峯寺の鐘楼 |
![]() |
![]() |
金剛峯寺の主殿側から見た山門 | 金剛峯寺の境内 |
![]() |
![]() |
金堂 <高野山御開創当時は講堂と呼ばれていた。 平安時代半ばから、高野山の総本堂として 重要な役割を果たしてきた。現在の建物は 7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成した> |
根本大塔
(高さ48m) <根本大塔が建つ壇上伽藍は、空海が おられる奥之院と並んで、高野山の中で最も 神聖な場所。空海が高野山を開創するに あたり、この塔を真言密教の根本道場とした> |
![]() |
![]() |
三鈷(さんこ)の松 <金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた松の木 ここの松の葉は二本の松葉に混じって三本に分か れたものがあり、これにはお大師さまが高野山を 開かれたことにまつわる不思議な話がある> |
金堂と根本大塔 |
![]() |
![]() |
准胝堂(じゅんていどう) <備考4参照> |
孔雀堂 <備考5参照> |
![]() |
![]() |
御影堂(みえどう) 本尊 弘法大師 <備考6参照> |
大門 |
![]() |
![]() |
大門 <備考7参照> |
大門の正面の柱聯(ちゅうれん) <備考8参照> |
![]() |
![]() |
大門の仁王像(金剛力士像)の阿形像 <康意の作;像高は 546cm> |
大門の仁王像(金剛力士像)の吽形像 <運長の作;像高は 558cm> |
![]() |
![]() |
大門の屋根の下に描かれている絵 | |
![]() |
![]() |
大門の屋根の下に描かれている絵 | 安永2年5月と彫られた五輪塔 <備考9参照> |
![]() |
![]() |
同じ五輪塔の側面に「六町」と掘ってある <備考10参照> |
大門の駐車場付近 |
![]() |
![]() |
<備考> 1 金剛三昧院の説明板 源頼朝の妻政子(北条政子)は頼朝亡き後、入道して二位禅定如実となり、 先に建てた禅定院を金剛三昧院と改称し、行勇禅師を住持とした。 筑前粥田庄などの荘園を寄進してここに学問をおこした。境内に 勧学院を建て秋田城介泰盛などの尽力によって高野板の密教経疏(きょうしょ) を刊行して密教学を興した。境内には国宝多宝塔、重文経蔵(きょうぞう)、 四社明神、客殿等の指定建造物がある。 2 国宝「多宝塔」(世界遺産) 多宝塔は仏教建築の仏塔のひとつで、本来の屋根の下に、もう一重屋根を重ねる 建築様式。外観は二階建てに見えるが実際は一階建て。 高さはおよそ15m。 屋根の一辺は約9m。 多宝塔の内部は須弥壇(しゅみだん)が設けられ、その前 に仏師運慶作と伝えられる五智如来(国指定重要文化財)像が安置されている。 3 金剛三昧院の本堂 本堂の本尊は愛染明王で憤怒の顔を表現している。 愛染明王は人の欲望を悟り の心に変える仏様。 愛染明王の誓願の中に、良縁や安産、子孫繁栄といった、 女性の願いを叶えてくれるものが多く、子孫の安泰を願う気持ちが込められている。 金剛三昧院の愛染明王像は、源頼朝公の等身大の念持仏で、仏師運慶の作で あると伝わる。 本尊の脇には源頼朝公(左)、北条政子、足利尊氏公(右)、 足利直義公の位牌が安置されている。 4 准胝堂(じゅんていどう) 本尊の准胝観音は、弘法大師が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造立されたと 伝えられている。この准胝観音は、伽藍が建立された当時、食堂に安置せられて いたと伝えられている。その後、天禄4年(973年)頃になって、この堂が建立され、 移動されたということ。幾たびも焼失したが、現在の堂は明治16年(1883年) に再建された。 5 孔雀堂 国史跡 金剛峯寺境内(伽藍)指定 昭和52年7月14日 <説明板>本尊:孔雀明王 後鳥羽法皇の御願により正治2年(1200)に落慶し、仏師快慶作孔雀明王を安置 した。堂は昭和59年(1984)再建された。 孔雀明王は重要文化財として現存する。 *落慶(らっけい)とは、寺社などの新築、また修理の完成を祝うことである。 6 御影堂(みえどう) <説明板> 本尊 弘法大師 大師が弟子等と共に念誦された持仏堂である。大師の弟子真如法親王が 大師御入定前に写された御影を安置してある。御廟と共に山上で最も尊厳を 尚(たっと)ぶお堂である。 *ねんじゅ【念誦】とは。心の中で仏に祈り、口に仏の名号(みょうごう)や経文など を唱えること *入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。 原義としての「入定」(悟りを得ること)と区別するため、生入定(いきにゅうじょう) という俗称もある。 僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的 とする。後に、その肉体が即身仏となって現れるのである。 *御廟:高野山奥の院は弘法大師の御廟 このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた方しか堂内に入ることは許され ませんでしたが、近年になって旧暦3月21日に執行される「旧正御影供」の前夜、 御逮夜法会(おたいやほうえ)の後に外陣への一般参拝が許されるようになった。 7 大門:金剛峯寺大門(だいもん)(1705年再建・国重要文化財) 高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財と世界遺産に指定されている。 高野山の表玄関。高さ25.8mは日本では最大級で、門の両側には運慶の流れを 汲む江戸時代の京都の仏師、法橋運長と康意の作による仁王像(金剛力士像)が 立っている。 阿形像(右;康意の作)の像高は 546.0センチメートル、吽形像(左;運長の作) は558.0センチメートル 8 大門の正面の柱聯(ちゅうれん) 太い右の柱には「不闕日日之影向」と彫られた柱聯が掲げられ、太い左の柱には 「検知處々之遺跡」と彫られた柱聯が掲げられている *柱聯(ちゅうれん)とは、柱や壁に相対に掛けて飾りとする長い書画の板のことで、 主に詩文などを書く場合が多いようだ。 9 安永2年5月と彫られた五輪塔 上から頭、首、肩から下、腹、下半身を意味する。江戸時代の身分制により庶民は 五輪塔を作れなくなったので、一番下の下半身を意味する四角の部分をお墓にして、 供養するようになった。 10 五輪塔の側面に掘ってある「六町」 6町毎にこのような五輪塔が道標として築かれている。当時、女人禁制のため、 空海の母は空海に会う事が出来なかった。空海は母の為に、母が住んでいる場所 から高野山の入口までの道路にこの五輪塔を6町毎に立てた。 *五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。 五輪卒塔婆、五輪解脱とも呼ばれる。 *1町=1.2km |