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2015年近江八幡市と彦根城 P1
Ohmihachiman City and Hikone Castle in 2015 P1
(Photos taken on May 29 & 30, 2015)

 

2015年5月29日から近江八幡と彦根への一泊二日旅行へ。

5月29日午前8時30分瀬戸市の自宅を出発し、瀬戸市から借りている菜園(瀬戸市中水野)で
水遣り後、名神高速道路春日井ICから近江八幡と彦根への一泊二日旅行へ。

初日(往路):
瀬戸市8:30→名神高速道路春日井IC→竜王IC11:15→竜王アウトレット11:20-12:50
(カルディコーヒーファームKALDIでコーヒー豆等を購入)→国道477号を北上→
近江八幡市市営小幡観光駐車場13:10-14:50(TEL0748-33-2411 \510)→
近江八幡市街散策(備考1参照)→県道26号・国道25号(さざなみ街道)→
彦根ビューホテル15:30(TEL 0749-26-1111;カーナビで入力すると彦根プリンスホテルと表示)
2日目&復路:
彦根ビューホテル8:40→大手前駐車場8:50-13:00(城の中堀と内堀の中間に位置 \400/日)→
彦根城(TEL0749-22-2742)→彦根市内の夢京橋キャッスルロード散策(備考3参照)→
大手前駐車場→名神高速彦根IC13:10)→名神高速春日井IC14:10→瀬戸市14:30

【備考】
近江八幡市街散策
小幡観光駐車場→新町通り・郷土資料館→八幡堀→白雲館→白雲橋→
日牟礼八幡宮(ひむれはちまんぐう)→日牟礼八幡宮敷地内のクラブハリエ5→
明治橋近くの料理店「嘉兵衛」で昼食→小幡観光駐車場

2白雲館 (入館無料:9:00-16:30観光案内所併設)
<出所:説明版> 1877年八幡東小学校として建築。当時の児童数は男115人、女117人、
計232人。学校として使用後、役場、引用金庫等を経て平成6年現在の姿に復元。
白雲館という名称は、藤原不比等の和歌
「雨降りの神の誕生の八幡かも日牟礼の杜になびく白雲」
から名付けられた説や鎌倉時代の臨済宗の僧、白雲慧暁の徳を偲んだことによる説等がある。

3夢京橋キャッスルロード散策
和菓子店「いと重菓舗」で饅頭「埋もれ木」(和三盆を使用)を購入 (鳳翔台で頂いた抹茶に
出されたスイーツが「埋もれ木」。非常に上品な甘さであった。)
鮎の料理店「きむら」で昼食


竜王アウトレット
(滋賀県蒲生郡竜王町)
駐車場P5からアクセス
(右に大きな池)
近江八幡市市営小幡観光駐車場 新町通り・郷土資料館
白雲館(備考2参照)
(入館無料:9:00-16:30観光案内所併設)
日牟礼八幡宮の鳥居から道路越し
に白雲館を見る
日牟礼八幡宮の山門 日牟礼八幡宮の拝殿
日牟礼八幡宮の拝殿と本殿
(後ろに見える)
日牟礼八幡宮敷地内のクラブハリエ5
(13:20頃ここで桂三枝と目の前で遭遇。
テレビのクルーらしき人達が数人随行)
八幡堀をめぐる舟 明治橋から八幡堀を見る
明治橋近くの料理店「嘉兵衛」(左:中庭 右:昼食)
(六代 桂文枝(前名は桂三枝)とテレビのクルーらしき人もちょっと前に立ち寄った)
八幡堀新町浜の苗村肥料店
(ポン菓子を購入)
真宗大谷派蓮照寺(本町付近)
本町通り京街道・本町(ここは伝統的建造物保存地区ではないが趣がある)
クラブハリエ(近江八幡市街散策を終え彦根市へ向かう途中、
県道26号沿いに最近オープンされたクラブハリエへ立ち寄った)
クラブハリエの屋根には省エネの為、
芝生が植えられている
店内には切り分ける前の長さ1m位の
バームクーヘンが展示されている
;2階は喫茶店
彦根ビューホテル 夕食バイキング(ソフトドリンクの他に
アルコールも飲み放題)
夕食バイキング
夕焼け
翌日、彦根市の都市景観形成重点地区になっている彦根城郭などを散策
大手前駐車場 大手門橋
廊下橋(右に天秤櫓が見える;
表門からここまで急な階段を登ってきた)
廊下橋と天秤櫓
天秤櫓
(雲が気味悪い形だと思っていたら、翌日
関東地方を震源として北海道から九州
まで大きな地震が発生)
太鼓門櫓及び続櫓(つづきやぐら)
(本丸の表口を固める櫓門)
天守
(背景の雲の形が気味悪い)
天守の破風に施されている金色の飾り
天守の内部
(傾斜が非常に急な階段)
本丸跡から彦根市の南部を望む
(左:野球場 中央:佐和山  右奥全体:鈴鹿山脈)
野球場のズーム 天守の背後
西の丸跡付近の黒門山道から天守の
横を見る(表門から天守へ行くまでは
急な登りだったが、この山道
から黒門までもやや急な下り)
黒門山道
黒門山道 黒門橋から黒門山道出口を見る
楽々園(旧藩主の下屋敷の跡;庭から大広間と地震の間を見学)
                              地震の間(御茶座敷) 
江戸時代には、地震の時に逃げ込むための部屋を造った例はいくつかあったらしいが、現存のものは
ほとんどない。この地震の間は日常、御座敷として使用されていたが、構造の細部を総合的に見ると、
最初から耐震構造の意図のもとに計画されたことは間違いないと思われる。その根拠となる構造、手法
の特色と仕手は、人工的な岩組によって建築地盤を堅固にしており、柱が土台に固定されておらず、
天井裏で対角線方向に綱が張ってある。さらには、建物全体を軽快な数寄屋造りとし、屋根を軽いこけら葺き、
土壁も比較的少なくしている。 また、下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする、
基本的な耐震建築の様式を採用している。【説明の出所】説明板