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2018年5月4日、名鉄瀬戸線「東大手駅」で下車し、名古屋城周辺から「文化のみち」へと散策。帰りは
名鉄瀬戸線「尼ケ坂駅」で乗車し、自宅最寄りの「瀬戸市役所前」で下車し、帰宅。運動不足解消も
目的の一つだった。2018年5月7日から天守閣の木造復元工事に伴い、コンクリート製の名古屋城を
見る機会は5月6日まで、ということもあり、全国からたくさんの観光客がきていました。

1 金シャチ横丁について[出所:名古屋城公式ウエブサイト]
金シャチ横丁とは、名古屋の武家文化のシンボルである名古屋城及びその周辺の魅力を一層向上
させるとともに、国内外からの来訪者に対して名古屋の魅力を発信することを目的とした施設です。
その段階的な整備の第一段階として、平成30年3月29日(木)に名古屋城正門側と東門側2つのエリア
に「義直ゾーン」、「宗春ゾーン」がオープンした。

2 名古屋城天守閣 木造復元について[出所:名古屋城公式ウエブサイト]
@ 趣旨
名古屋城は、徳川家康の命により諸大名を動員した「天下普請」として築城が行われ、1612年に天守
が完成しました。1930年には宮内省より名古屋市に下賜され、本丸御殿などの建造物とともに、
城郭として初めて国宝に指定されました。しかし、太平洋戦争により、1945年に天守や本丸御殿などの
主要な建造物は惜しくも焼失してしまいました。現在の天守閣については、戦後、市民の多大な寄附
により再建された鉄骨鉄筋コンクリート造の建造物ですが、再建から半世紀が経過し、設備の老朽化や
耐震性の確保などの問題が発生しています。そのような課題を克服するとともに、特別史跡名古屋城跡
の本質的価値の理解を促進するため、「金城温古録」や「昭和実測図」「ガラス乾板写真」など、現代に
残された豊富な資料に基づく天守閣の木造復元を進めています。なお、木造復元された天守閣の
竣工時期は、2022年12月を予定しています。
A 名古屋城の歴史と復元の意義
江戸時代初期において、名古屋城(1612年)、大坂城(1626年)、江戸城(1638年)の3つの天守は、
その大きさで、他の城郭を圧倒していました。 ところが、江戸城は明暦の大火により、大坂城は
落雷により天守が焼失し、再建されることはありませんでした。 一方、名古屋城は戦災により
焼失するまで、日本最大の天守であり続け、その江戸・ 明治・大正・昭和という、その存在期間の
長さから、多くの図面や絵、写真の撮影 が行われました。 その後、昭和5年(1930年)、当時の
所管であった宮内省より名古屋市に下賜(かし)された名古屋城は、同月、天守、本丸御殿などが
国宝に指定され、翌年には一 般公開が始まりました。市民が自由に内部を見学できるように
なったことで、より市民の記憶に残り、資料 や絵画なども多く出版されたのです。 戦災による焼失
までわずか16年しかありませんでしたが、この間には多くの絵や図面、そして写真が撮影され、
その情報量は、他の城郭の比ではありませんでした。

3 名古屋城本丸御殿について
[出所:「名古屋城本丸御殿」のホームページと「名古屋城本丸御殿完成公開」のホームページ]
名古屋城本丸御殿は、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として慶長20年(1615年)、徳川家康の命
によって建てられました。昭和5年には、天守閣とともに国宝に指定され、屈指の名城として
知られていましたが、昭和20年の空襲により建物の大部分が焼失しました。復元が待ち望まれた
本丸御殿は、平成21年から復元工事が始まり、平成30年6月8日、いよいよ完成公開を迎えます。
名古屋市では、平成21年(2009)1月から本丸御殿の復元に着手し、平成25年5月29日から
玄関・表書院を、平成28年6月1日から対面所・下御膳所を公開しました。
平成30年6月8日に完成公開を迎え、上洛殿や湯殿書院等を公開予定です。

4 「文化のみち」[出所:「文化のみち」パンフレット]
名古屋城から徳川園に至るエリアには江戸から明治、大正へと続く名古屋の近代化の歩みを
伝える多くの建物などの貴重な歴史遺産が残されています。「文化のみち」と名付けられた
このエリアでは、建築遺産の保存・活用が進められています。

5 「白壁・主税・撞木町並み保存地区」[出所:各種ウェブページ]
「白壁・主税・撞木町並み保存地区」文化のみちの中核を成している。
名古屋城の東の東区の「白壁・主税・撞木町並み保存地区」にはかつては中級武士の屋敷が
並んでいました。明治以降の優れた洋風建築や和風建築が残されています。昭和60年に
市の町並み保存地区に指定されました。白壁筋の景観は名古屋市内で武家屋敷町の趣きを
とどめる唯一の地区であるとともに、大正・昭和初期に活躍した起業家達が建てた近代建築物
が数多く残されており、名古屋の近代化の歴史を今日に伝えています。

6 白壁の歴史 [出所:ウイキペディア]
白壁地区のうち現町名の由来となった旧白壁町地域は、江戸時代禄高にして三百石級の
組頭階級の武家屋敷が多く立ち並んでいた。中でも豊田太郎左衛門の武家屋敷は当時としては
珍しい白塗りで、これが見事であったためその後周囲の屋敷もこれを真似て白壁の屋敷が
多くなったことから地名になったとされる。その他の地域も、旧長塀町・東二葉町・西二葉町
など尾張徳川家の家老であった成瀬家・竹腰家の中屋敷やその家中の者が居住していたと
考えられている地域が多い。

7 文化のみち橦木館[出所:名古屋市東区のホームページ]
文化のみち橦木館は、磁器商であった井元為三郎が大正末期から昭和初期に建てた屋敷です。
和風の母屋と洋館が繋がった和洋併置方式の住宅で、随所に優れた職人の技を生かし贅を
尽くしています。


清水橋(東大手駅下車すぐの橋)
清水橋(後方に名古屋市役所の一部が見える)
地下鉄市役所駅の出入口
(「宗春ゾーン」はすぐ前;後方に名古屋市役所の一部が見える)
金シャチ横丁「宗春ゾーン」への入り口
「宗春ゾーン」
「義直ゾーン」への入り口
「義直ゾーン」
名古屋城正門へ入場するために待つ人の行列
外堀の外から天守閣を見る
(右側の石垣の上に建造中の木造建築物が見えるが、これは
平成30年6月8日完成公開予定の上洛殿や湯殿書院等か?)
              ホテルナゴヤキャッスル(右)と戌亥隅櫓(西北隅櫓)
名古屋城の北西エリア、御深井丸(おふけまる)と呼ばれる場所の北西隅に戌亥隅櫓(西北隅櫓)
が現存しています。西北隅櫓は、1611年(慶長16年)に清洲城(清須城)天守または小天守を
移築したものと伝えられているため「清洲櫓」とも呼ばれています。
名城公園からお堀越しに天守閣を見る
名城公園から藤棚越しに天守閣を見る
名城公園の藤棚、お堀、天守閣を見る
名古屋市役所(左)と愛知県庁舎(国指定重要文化財)
愛知県庁舎
名古屋市役所の旗と鯉のぼり
大津橋
大津橋交差点
久屋橋交差点
「文化のみち二葉館」の近くの食事処「花ごよみ」
「花ごよみ」で昼食
「花ごよみ」で昼食
旧豊田佐助邸
旧豊田佐助邸の庭
旧豊田佐助邸の一階
筋交いを漆喰に収めた地震に強い構造
旧豊田佐助邸の二階
西川秋次の海外渡航にお供した木箱ケース
旧春田鉄次郎邸
「文化のみち撞木館」
「文化のみち撞木館」の庭(玄関とテラスが見える)
「文化のみち撞木館」の庭(茶室が見える)
「文化のみち撞木館」の庭(和室が見える)
「文化のみち撞木館」の庭(喫茶室横のテラス)
「文化のみち撞木館」の玄関のステンドグラス
「文化のみち撞木館」の玄関ホール横の階段と喫茶室
「文化のみち撞木館」の喫茶室のステンドグラス
「文化のみち撞木館」の玄関ホールのステンドグラス
「文化のみち撞木館」の一階
「文化のみち撞木館」の二階の旧娯楽室(ステンドグラスが見える)
「文化のみち」内の主税町にある日蓮正宗「妙道寺」
(山門の横に「尾張藩士 禄五百石 高梨五左衛門邸跡」の石碑がある)