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飛騨高山 Hida Takayama [Photos taken on Nov.30, 2002] |
飛騨高山(No.2) | Hida Takayama(No.2) |
飛騨高山の歴史 縄文時代(BC4000〜BC1000)の遺跡が多くある。 古墳時代(弥生末期〜奈良期初期600年頃)正史に飛騨の事件登場。 飛騨の豪族も中央に従う。 白鳳・奈良時代(〜752年):大化の改新(645年)で税を納めることが 決められたが、飛騨の匠の技を中央政府の都の造営に協力し、税を 免れる。歴史上、有名な寺社を建てた人の中に、飛騨の匠の名前が 多く見られる。 奈良時代に中央の文化が高山に入る。(国分寺と国文尼寺 - 仏教を 盛んにしようと、聖武天皇が各国に国分寺を建てるよう命じた。) 平安時代(794〜1185)〜戦国時代(1397〜1573) 平家が天下を握ると,平家の領国となる。 鎌倉時代(1185〜1332):高山は不明なことが多い。おそらく、政治の中心 が北方の古川町へ移る。 室町時代(戦国時代)の終りに高山外記(たかやまげき)が天神山 (てんじんやま・今の城山)に城を築く。このため、城の近くを高山と呼ぶ ようになったと伝えられている。 高山の南にあたる、益田郡に勢力を持っていた三木(みつき)氏が高山 へ進出し、松倉城を築く。三木氏は豊臣秀吉に従わず, 秀吉の家来の 金森長近に滅ぼされる。 金森時代(1586〜1692) 飛騨国三万三千石の国主として入府。以後16年かけ、本丸、二の丸、 三の丸を築く。関が原の戦い(1600)では徳川方につく。 城と同時に城下町の工事も行い、城を取り囲むように高台を武家地とし、 一段低いところを町人の町とし、京都になぞらえて東山に寺院群を 設けた。農民一揆の対策として、門徒の多い照蓮寺(現在の高山別院) を高山城と向かい合わせに配置し,人の心を休め、宗和流茶道を始め、 寺社の再興、様々な文化をおこすことも積極的に行う。 1692年突然、出羽国上ノ山(でわのくにかみのやま・山形県)に転封と なり、金森氏による政治が終わる。 幕府直轄地(天領)時代(1692〜1868) 1695年幕府から高山城破却の命令が出て、取り壊される。 この間、善政を尽くした代官・郡代がいた。例えば、8代高田善太夫 (こうだぜんだゆう)は飢饉の為に、馬鈴薯を農民に作らせ、飛騨では 「善太夫いも」「ぜんだいも」と今も呼んでいる。20代豊田藤之進 (とよたふじのしん)は渋草焼を起こし、養蚕を盛んにした。 明治以降 明治元年:五月、飛騨県がおかれ、同年6月高山県となる。 明治4年: 築摩県に移管。 明治8年:高山一之町(いちのまち)村、二之町村、三之町村が合併し 高山町となる。 明治9年:飛騨は岐阜県に入る。 明治22年(1889):15,385人で新しい町制が実施される。 大正15年(1926):灘村を合併。 昭和9年(1934):国鉄高山本線が開通。 昭和11年:大名田町を合併して高山市となる。 昭和18年上枝村(ほずえむら)、昭和30年(1955)に大八賀村 (だいはちがむら)を合併し、現在の高山市となる。 【注】 「2003年飛騨高山総合パンフレット」(高山市産業振興部観光課) を引用し、一部追記して要約。 |
高山へのアクセス: 瀬戸〜高山 国道248号・41号 片道約160km 約4時間 *多治見から美濃方面へのバイパスを利用し、降りてから約5分 ドライブしていくと、新美濃太田橋へ直通の新しい道が出来たので 国道41号へ出るのが、非常に楽になった。 もうひとつの高山観光: 一般の観光客は通常、高山陣屋を起点として、朝市や古い町並みである 「上二之町」「上三之町」当たりを見て、終りじゃないでしょうか。 始めてなら、これで良いと思いますが、健脚なら、次のコースがお奨め: 城山公園(高山城址) → 東山遊歩道(寺、神社)→ 高山別院寺宝館 → 北山遊歩道 → 高山屋台会館 → 宮地家住宅(無料) → 松本家住宅(無料) 駐車: 20分100円。又は1時間以内300円。20分単位の有料駐車を推薦。 長時間観光するなら、宿泊ホテルに駐車して、歩いて行くのが良い。 或いは、観光中心部から徒歩30分位の無料駐車スペースを見つける。 * 高山は見学場所はほとんど有料。手当たり次第に見学しない事。 * 寺、神社は当然、無料だし、高山を知る上には見学したほうが良い。 |
神楽台(注1) |
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中橋(陣屋の真東) |
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わらじ屋 八幡宮境内にある |
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わらじ屋陳列品の一部:小糸焼は窯元での撮影写真を 載せたのでここでは省略。 |
桜山八幡宮 |
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窯(ガス・薪) | 小糸窯直営店 | 小糸窯 |
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一位の木 (注6) |
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清酒「飛騨の甚五郎」 (柱7) |
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注 1 「まつりの森」のジオドーム(地中ドーム)に高山祭まつり屋台が常時、 6台展示。 ジオドーム:美術品、特に木工品、漆器などの所蔵保管に悪影響を 与える紫外線、電磁波、放射能と温度・湿度の変化を最小限に抑える 効果がある。 2 紫梟(しずく)焼 1970年高山市生れの中西忠博氏が1996年高山で築窯した穴窯 を紫梟窯といい、そこで焼かれた陶器を紫梟焼と呼ぶ。 (中西忠博氏の履歴パンフレットを引用、解釈) 3 渋草焼 天保13年(1842)飛騨郡代豊田藤之進が当時、尾張の名陶工として 名高い加藤春岱の門人、戸田柳造を招き、高山の西郊外、渋草の地 に窯を築き、陶業を始めさせたのがその起こり。渋草焼は、飛騨の国 で産する良質の陶土を使い、五彩、赤絵をつけた作品が多く見られ、 別名、飛騨赤絵と称されていた。 現在の渋草焼は、初代柳造の意を継いで、工夫をこらし、赤絵、染付 を毛筆描画して、独特の雅風を現した手作りならではの作品。 (渋草焼のパンフレットを引用、要約) 4 山田焼 高山の西郊、雑木林に囲まれた丘陵地に窯場がある。明和年間 (1764〜1772)の開窯で、厨房雑器、建築用陶器、茶陶器を焼き続けて きた。(山田焼窯元 陶師 小林鳳山氏の「山田焼について」を引用、 要約) 5 小糸焼 寛永年間 (1624〜1644)、京の陶工が風流の高山城主に招かれ、開窯。 その後、天保7年(1837)、高山の豪商、細江屋喜助と打保屋忠衛門に より、尾張より、名陶工、戸田柳造を迎えて、現在の地、小糸坂にて 復活を図り、今日、小糸窯元として作陶。 (飛騨小糸窯 長倉靖邦氏のパンフレットを引用、要約) 6 一位の木 一位一刀彫はこの一位の木で彫られる。彩色を施さない伝統的 工芸品。3年位で艶がある褐色に変色。欅(けやき)では変色しない。 (一位一刀彫会館で彫刻師に聞いた) 7 清酒「飛騨の甚五郎」 「飛騨の甚五郎」と銘打った徳利をホテル1階の飛騨物産館で購入。 これは名匠左甚五郎の名にあやかった飛騨の銘酒。 この徳利は織部釉のような味わい。これは、本当に高山で焼かれた のか半信半疑だったが、店の人に確認したら「高山で焼いたものです」 との事。 それなら、記念にという事で購入。 8 左甚五郎 江戸初期の建築・彫刻の稀代の名工と称されている。少年期、 飛騨高山で過ごし、京都で大工の技を磨き、江戸城の大改築・ 日光東照宮・上野寛永寺の造営に従事した。東照宮の「眠り猫」、 寛永寺の「鐘楼の登り竜」の彫刻は彼の作として伝えられている。 飛騨の匠(物語)が左甚五郎(伝説)に反映した一種の伝説上の 人物であったのかもしれない。しかし、永々、磨きぬかれ受け継が れてきた飛騨の匠の技量は今もなお息づいている。 (清酒「飛騨の甚五郎」の化粧箱に印刷されている説明を引用、要約) |