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第6回赤津窯の里めぐり
6th Visit to Kilns at Akazu area - Parents' Home of Kilns
(Photos taken on Nov. 10, 2002)


「国際セラミック&ガラスアートフェスティバルin瀬戸」と第11回「赤津窯の里めぐり」
<2005年4月9日と10日>


2002年11月10日第3回せと・まるっとミュージアム大回遊として瀬戸市内の各地区で
窯元めぐり、陶芸作品展示即売会、EXPO市民参加陶板づくり、第10回市民歩け歩け大会
等が行われました。 
小生はこの内第6回赤津窯の里めぐりの一部の個所だけを回りました。 瀬戸市内に
ずっと住んでいますが、初めて赤津の窯元や陶器問屋へ行きました。
すばらしいの一言に尽きます。 名実共にこれぞ陶芸家の里という表現がぴったりです。
古瀬戸街道と御深井(おふけ)街道・千倉街道(県道瀬戸設楽線)及び織部街道
(県道瀬戸環状線)が合流する当たり(大松の交差点)を中心として半径約200mの圏内
に38の窯元と4軒の陶器問屋、赤津焼会館それと1軒のガラススタジオがあります。
ここをしっかり見学するには丸2日はかかるでしょう。小生は4時間で赤津焼会館を含め
11箇所を見学してきました。これでも十分堪能できました。

雰囲気は写真を参照して下さい。(写真は歩いた順番で並べてあります)

駐車場: 7箇所の臨時駐車場
      赤津保育園の前の駐車場(一番便利。但し収容約30台)
      東明小学校のグラウンド(収容力十分でお奨め)
      窯元には駐車場がある所もあります
アクセス時間: 瀬戸市役所から車で約10分

赤津焼の歴史:(喜多窯 霞仙陶苑に置いてあったパンフレットから引用、一部変更し要約)
赤津焼の古里は瀬戸市の東端にある赤津地区で日本の高温陶器発祥の地です。
1925年(大正十四年)に当時の瀬戸町と合併するまで、赤津村として、千年を超える
焼物の歴史にはぐくまれて、今日までその技術が脈々と受け継がれている、古窯の1つ
です。

この赤津地区を含めた瀬戸地方の焼物の歴史は古く、歴史資料にはじめて瀬戸地方が
登場するのは「日本後期」弘仁六年(815年)正月五日の条に出て来ます。古窯の調査に
より、奈良時代に瀬戸地方の官窯としての須恵器の生産は、相当高度に達していた事が
わかり、おそらく奈良、平安の都の需要の大半をまかなっていたと推測できます。
平安時代にはすでに灰を用いた物があり、平安貴族の器を焼成しており、都が落ちぶれ
ると共に無釉の器となり、鎌倉時代に再び灰釉、鉄釉が盛んに焼成され、世にいう古瀬戸
(鉄釉)黄金時代
となりました。

鎌倉期、六古窯と言われている中で、釉薬を用いるのが、瀬戸地方だけ(最近になって
越前古窯の一部で灰釉のものが発掘された)であるのは、陶土はもちろんのこと、釉薬の
原料にも恵まれ
ていたわけです。

800年頃、日本のほとんどの地方で無釉の焼物を焼いていた時代に、赤津焼は、灰釉
はもちろん鉄釉も使用
して、種々の焼物を焼いていました。瓶子、水差、四耳壷、仏花器、
香炉など、生活用具は多彩となり、平安時代、土を求め薪を探して転々と窯は移動し、
定着性の無い生活であったが、この時にようやく定着し集落を作って生産に励んで
技術・技法が非常に進みました。

天目茶碗、天目釉(鉄釉)小皿、壷、仏花器、水盤など、さまざまな器物が作られ、瀬戸地方
一帯から採掘される「鬼板粘土」の、鉄釉原料によって焼物史上意義深い飛躍した時代と
なり、釉薬や文様の美を発揮し赤津地区にある古窯群から数多くの様々の器物に、灰釉、
鉄釉を施して作られた焼物が発掘されております。 文様もそれまでの単調なものと異なり、
ヘラ彫りと印刻文、貼付け、凸帯(貼付けの一種)、千条文(櫛目)など複雑な構成で、
菊花文をはじめ、連珠文、梅鉢文、青海波文、唐草文など数十種類にのぼる文様が施され
ています。

室町、桃山時代に入り、戦国時代の戦火に追われて不振であった焼物に対する織田信長の
瀬戸地方焼物の保護育成から隆盛となり、桃山文化の開花に伴い茶道の発展と共に、
織部、志野、黄瀬戸等の茶陶が盛んに焼成されるようになりました。窯の様式も窖窯から、
地上式連房窯と移り、大きな変化を遂げました。赤津焼の多様な釉薬の大半は、この時代
までに焼成されるようになりました。

慶長十五年(1610年)尾張藩主徳川義直(徳川家康の子)は戦火を避けて、他の地方に
出ていた陶工を赤津村(現在の瀬戸市赤津)に呼び寄せ、住まわせて赤津窯の復興に
あたらせ、なお尾張藩中でも焼物を焼くべく、元和二年(1616年)赤津の陶工、仁兵衛、
唐三郎を名古屋城に招き、城内御深井丸(おふけまる)に窯を築き、尾州御庭焼を焼かせ、
後に同じく赤津村の太兵衛も参加させて、御窯屋、御三家と呼ぶようになった。

赤津焼が今日も盛んに古代の技術・技法そのままで焼成されているのも、この徳川御窯屋
の出仕(しゅっし)が明治の廃藩置県で御庭焼が廃止されるまで続き、強大な徳川家の保護
によるものでありましょう。また、この御庭焼で今までの釉調とは異なる安南風呉須絵の
御深井焼が中国人陳元贇(チンゲンピン)によって指導され、今日赤津焼の中で一番むつ
かしいといわれる淡青色灰釉の御深井釉が生まれました。

御庭焼ではこの御深井釉を始め、織部、志野、黄瀬戸、古瀬戸、鉄釉、灰釉を使用して
優雅な御用品
が焼かれ、同時に御窯屋のある赤津村でも盛んに焼成されておりました。
土佐藩士、森田久右エ門の、森田日記によりますと、延宝六年(1678年)江戸出府の途中、
赤津村に立ち寄り、すり鉢、はんど、片口、茶碗などが焼かれていると、この日記に記されて
おり、御窯屋、御三家以外では日用雑器も盛んに焼いていたものと思われます。

江戸時代の末期、八代目太兵衛の子、加藤春岱しゅんたい)が赤津村に生まれ、15歳
で家を継ぎ、御窯屋となり、その技術はあらゆる品種にわたり、近世の名工と称され、現在
赤津焼の釉薬技法が春岱によって復興されたり、一段と隆盛を高めたりして、今日、
その伝統が引き継がれています。今日の赤津焼の技法、手法、釉薬はもちろんのこと、
日本の他産地の釉薬技法も駆使して、制作活動を行い、特にロクロ技術の成形と妙技に至
っては、比類をみないと、加藤唐九朗氏備考7参照)は「原色陶器大辞典」に記されている。
また、江戸時代中期に一時衰微した織部を復興して、今日の隆昌をもたらし、これが
赤津焼織部と世にいわれ、他に類を見ない、重厚な感じの織部です。

全国各地の何々焼と言われる焼物が近世、その産地の名前をつけて呼ばれているのに比
べ、赤津焼の名前は古く、各地では「何々窯」と窯の名前で呼ばれていた時代に、既に
「赤津焼」の名前が古文書に出ています。 唐津窯取立由来書(この古文書は貞亨
(ていきょう)三年(1686年)の日付あり)の中に瀬戸、赤津近辺の窯の名前が「何々窯」
というように書かれていますが、赤津焼の項に「赤津窯此窯師之名呼赤津焼ト云フ」上作
と記されており、当時既に赤津焼の名前が付けられていました。 「先生の名前を呼んで
赤津焼と云います」と記されている所から解釈すると、当時、赤津窯を指導していた人が
「赤津何々」というような名前であり、その人の名前を取って赤津焼と呼ばれたものと思わ
れます。

赤津焼は、このようにして長い歴史と、恵まれた陶土や原料を使用して、七色の釉薬と
ヘラ彫り、印花等の十二種類もの装飾技法で美術陶芸品、茶道具、花器をはじめ、日用品
まで先人の努力をそのままに生かして、今日も制作されています。        


1 加藤舜陶氏の自宅
備考1参照)
2 菊陶薗 3 赤津焼会館
テーブルセッティング作品
発表会場(備考2
作品1 作品2 作品3 作品4
作品5 作品6 作品7 作品8
作品9 作品10 作品11 作品12
4 喜多窯 霞仙陶苑の
入口にぶら下がっていた
釉薬の案内板(備考8
5 織部街道へ向かう 7 長谷元窯 六兵衛陶苑 
ロクロ成形中
7 六兵衛陶苑
焼成前(左)・後(右)の鉢
備考3
8 且R長陶苑
(陶器問屋)(備考4
8 且R長陶苑
陳列品の一部
9 美山陶芸教室の
ギャラリー(2階)
備考5
10 西山窯 山口正文
備考6


備考:
1 瀬戸の伝統的な灰釉・御深井・織部・志野・黄瀬戸の釉薬を施した陶芸作品を主体とする
  愛知県指定無形文化財保持者(YAHOO JAPANで”加藤舜陶”で検索すると88件ヒット)
 赤津焼会館で「瀬戸織部のお持て成し」をテーマとして「瀬戸織部の器」を中心に素敵に
  テーブルコーディネートされた作品が約50セット展示されました。写真はその一部。
 焼成後の鉢の大きさは焼成前の粘土の大きさの約85%になる。
 大松の交差点近くの千倉街道沿いに店がある。ギャラリーとしては普通の大きさだが、
  小生好みの志野の器がこぎれいに飾ってあり、よく見ると自宅奥に通じると思われる道
  と庭園があったので入っていくと、各作家の陶芸作品が展示してあった。値段も非常に
  値打ちで、多治見市無形文化財保持者の安藤日出武(ひでたけ)氏が仙太郎窯で
  焼いたという「あかね志野」の湯のみを1つ購入した。
5 21世紀の日本陶芸界を担う陶芸家100人の一人と言われる寺田康雄氏の作品。
  金のかぼちゃといい、その左の器といい、とても陶器とは思えない出来映え。
  知らない人間が見たら、純金と思うでしょう。
  (YAHOO JAPANで”寺田康雄”で検索すると約100件ヒット)
 5代目山口正文氏の窯。黒織部や瀬戸黒の器が展示してあり、特に黒織部のあでやかさ
  に心を奪われながらも、値段を見たらちょっと軽い気持では買えないので、帰ろうとしたら、
  コーヒーの良い香りが漂ってきたので、聞いてみたら、すぐ近くで自宅を喫茶室にして、
  黒織部のカップでコーヒーを飲ませてもらえる(250円)とのこと。喜び勇んで飲んだ
  カップがテーブルの真中にあります。 (1年に2回自宅を喫茶室に開放)
7 加藤唐九朗(1897〜1985)の一部履歴:
  (1982年
日本経済新聞社発行の「加藤唐九朗の世界」より一部引用)
       愛知県東春日井郡水野村(現在の瀬戸市水野町)に生れる。
  
16歳: 父の丸窯の権利を譲り受け製陶業を始める。
  18歳: 商売優先の製陶業に適応出来ず、窯屋の経営に失敗。
  20歳: キリスト教に帰依。結婚。
  29歳: 陶芸の個人作家に専念。
  34歳: 法隆寺に茶碗を納入。
  35歳: 陶器大辞典の編纂に参画。
  39歳 「永仁の壷」の釜出しをする。
  43歳: 陶器大辞典(宝雲社)全6巻完結。
  44歳: 初の個展「志野・織部新作展」(東京日本橋・高島屋)開催。これを機に
       松永安左衛門(号耳庵)の知遇を得る。
  46歳: 四男、学徒動員中爆死。三女誕生。
  47歳: 次男、中国で戦死。弟、ビルマで戦死。
  49歳: 父死去。
  52歳: 川端康成らと「新日本茶道研究会」を結成。
  53歳: 南仏で織部向付(6点)を巡回展示中、ピカソが作品に注目。
  54歳: 第1回無形文化財記録保持者(いわゆる人間国宝)(織部焼)に認定。
       ピカソと作品を交換し瀬戸市へ寄贈。
  56歳: 荒川豊蔵らと「桃里会」を結成。
  59歳: 駐日ソ連大使館で「日ソ国交回復記念・日本工芸美術展」開催につき、
       日本側代表として調印式を行う。
  62歳: 8月「永仁問題」起こる。10月ヨーロッパから帰国し公的職務を辞任、作陶に専念。
  63歳: 新作の志野茶碗に桑原愛知県知事が「尾張の誇り」と命銘、さらに松永耳庵
       「岩清水」と追銘。
  66歳: 「日本のやきもの 第九巻 瀬戸・常滑」(淡交社)刊行。
  72歳: 「茶道美術全集 第三巻 和物茶碗」刊行。
  74歳: 「原色陶器大辞典」刊行。
  75歳: 「陶磁体系第十二巻 織部」刊行。
  76歳: 八月、 棟方志功と犬山の鵜飼に遊ぶ。
       九月、「唐九朗志野茶碗」刊行。十二月、「日本のやきもの 瀬戸」刊行。
  78歳: 「現代の陶芸 第六巻 加藤唐九朗・北大路魯山人・川喜田半泥子」刊行。
  79歳: 作品集「陶芸唐九朗」刊行。
  81歳: 「日本のやきもの・現代の巨匠 第十二巻 加藤唐九朗」刊行。
       七月、志野茶碗「紫匂ひ」(立原正秋命銘)できる。
  82歳: 「加藤唐九朗」(世界文化社)刊行。
  83歳: 立原正秋との共著「紫匂ひ」(講談社)刊行。
       五月、日本経済新聞に「私の履歴書」連載。
       十月、「現代日本陶芸全集 第十一巻 加藤唐九朗」(集英社)刊行。
  84歳: 「自伝 土と炎の迷路」(日本経済新聞社)刊行。
  
8 赤津焼の釉薬(うわぐすり): 写真左から説明。 
  (喜多窯 霞仙陶苑に置いてあったパンフレットから引用、一部変更し要約)
 
 灰釉   
  平安時代前期、平安貴族の食器を焼く窖窯で焼成され初期のものは器物の片側だけに
  灰の溶釉がみられる、自然釉。
  鉄釉
  鎌倉時代初期より水打粘土、鬼板粘土を使用した鉄釉が焼成される。茶入れを始めと
  する茶道具が生産され、世にゆう古瀬戸黄金時代いわれる。 貼花、印花を始め各種の
  装飾技法が発達した。
  古瀬戸  
  鎌倉時代初期より焼成され、鉄釉の一種で黒色の中に茶褐色の部分のある釉薬で、
  茶入れを始め、茶道具に多く使用されてきた。 特に古瀬戸の茶入れは有名。
  織部
  桃山時代から江戸時代初期、茶道具に使用され、当時は志野、鳴海、瀬戸(瀬戸黒、
  黒織部、織部黒)絵之手も含まれていた。 現在は黒織部、青織部、赤織部、絵織部を
  含めて織部と呼び、一般的には、青織部のみを織部と称している。黒織部は鉄釉に
  含めている。 赤織部は赤い地土に白土にて文様を画き、鉄絵をあしらう。絵織部
  織部文様のみをあしらい、灰白釉で焼成したもの。織部は美濃で発した、いや瀬戸だ
  との論争があるが、織田信長の時代戦乱を逃れて、瀬戸より美濃へ大量の工人が
  流出し、久尻窯を開いたといわれる加藤景光は天正2年赤津で修行し、天正11年
  (1583)美濃へ戻り久尻窯を開いたと伝えられている。 このように瀬戸も美濃もほぼ
  同時に織部、志野、黄瀬戸等を焼き始めたものと思われる。
  志野
  桃山時代、長石のみを釉薬として使用したもので、赤津猿投山の東側の広見の地は
  長石を掘り出した穴があり、又、西側、赤津にも現在も掘り穴が残っている。美濃は鉄分
  の多い陶土長石を使用しているため、赤色の発色が見られる為、通称赤志野と呼ばれて
  おり、赤津の長石は鉄分の含有率が少なく白色に発色する為、通称白志野と呼ばれる。 
  黄瀬戸
  鉄釉の一種で鉄分の含有率は10%程度で美しい黄色に発色する。桃山時代茶道具と
  して使用されるも、皿、鉢等にも多く使われている。1501年赤津白坂滝下窯で七宝文
  平皿が焼かれている。
  御深井(おふけ)
  尾張徳川家が名古屋城御深井丸の庭に窯を築いて尾州御庭焼と称して焼物の焼成を
  始め、1638年中国人、陳元贇(チンゲンピン)を江戸より連れてきて、この御用窯
  指導させた。この中国人によって安南風呉須絵のものが始めて指導された。この絵付
  したもので還元焼成したものを御深井と称し、酸化焼成したものを安南、もしくは安南手
  と称している。 釉薬そのものは灰釉の一種で出現は平安前期である。