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Seto Scenery Table
No.17-3 Walking for the year of 2020
<2020
年瀬戸市でのウォーキング>
No.17- for the year of 2020
No.17-2
No.17-4
No.17-5
No.17-6
No.17-7
No.17-8
No.17-9


撮影日Date photo taken

場所Place

Apr.22, 2020 ウォーキング(新郷地区)
Apr.24, 2020 ウォーキング(山口地区)
Apr.26, 2020 ウォーキング(東明地区)


2020年4月22日瀬戸市の新郷地区を撮影
新郷地区をウォーキング
    県道57号の交差点「新郷町東」付近から南西方向を望む
梶田神社は県道57号の交差点「新郷町東」(写真手前の信号)と
その約200m先(写真奥)の交差点「幡野町北」の中間位に位置している。
「新郷町東」付近にはスーパーマーケット「フィール」、「幡野町北」付近には
ドラッグストア「スギヤマ」があり、そこでの買い物を兼ね、撮影。
梶田神社の鳥居
梶田神社の拝殿
             梶田神社の説明板の写真
         上の写真:菱野おでく警固祭 梶田神社参詣
         下の写真:菱野棒ノ手の奉納


2020年4月24日瀬戸市の山口地区を撮影
山口地区をウォーキング
                     山口八幡社の石造鳥居
市指定有形文化財石造鳥居(八幡社)<説明出所:境内の説明板>
制作年 延宝5年(1677) 
形式・構造 花崗岩製 明神鳥居
規模 高さ 308cm
銘文 延宝5年丁巳閏十二月吉日
   尾州愛智郡山田庄山口村氏子

市内で確認されている石造鳥居の中で最古のもの。
明治以前に建立されたものは、この鳥居と赤津の大目神社(1755年製)の二基のみである。
やや小型ではあるが均衡がとれていて姿は美しい。
平成5年2月19日
有形文化財(建造物)に指定
瀬戸市教育委員会
           ツブラジイ(ブナ科)<1の鳥居と2の鳥居の間にある>
        桜の後ろ中央に見える。 瀬戸の名木に指定(平成9年3月)
        樹齢700年 樹高10m 根回り685cm 幹周り287cm
        枝張り 東西11m 南北11m
                        山口八幡社の拝殿
八幡社由緒<出所:境内の説明石碑>
祭神 神功皇后、応神天皇、多紀理毘売命、市寸島比売命、田寸津比売命
末社 21座
当神社は古くは山口神社と言われ、後醍醐天皇の延長5年に編修された延喜式神名帳に 
尾張国山田郡山口神社とあり、本国神名帳にも従三位山口天神と記載されている。
その後、承久2年に清和天皇12代の末孫山田次郎重忠が当地に八幡宮を勧請し社殿を造営、
貞応2年9月15日に竣工。 同時に山口神社を合祀した山田郡は室町時代中期に荒廃して
春日井郡と愛智郡に別れ、当山口村は愛智郡に属しその東端三河との国境を鎮護する神社
として崇敬された。 毎年9月15日に祭事を修め、翌16日の大祭には近郷24ケ村の村民全てが
飾馬を率いて参詣した。社頭には6世紀末の古墳を始め鎌倉期の古窯及び当地方最古の鳥居
などがあり 往時の隆昌が偲ばれる。
明治3年には郷社に列格され、近年まで郷社まつりが盛大に行われた。
                                     山口八幡社
                     東屋<説明出所:境内の説明板>
この建物は2005年に瀬戸市及び長久手町(現在は長久手市)で開催された愛知万博『愛・地球博』に
NPO法人社叢学会が、神社の森を始め都市緑地や自然の森の保全・拡充を図り、地球環境の向上を
テーマに『千年の森・天空鎮守の森』として出展し、資料展示室に使用した東屋です。山口八幡社では、
この理念を後世に伝えようと、東屋及び天空鎮守の森の樹木(京都の北山杉・里桜)を譲り受け、
会場より境内に移築・移植しました。
東屋説明板の写真部分
境内の高台への階段
境内の藤棚の藤
藤棚の藤を上から眺める(後ろに、あさい病院が見える)
             教春山本泉寺(山口八幡社から西へ300mほどの所にある)
●本泉寺<説明の出所:説明板>真宗高田派専修寺末で創建は弘安6年(1283年)
山田三郎泰親(後の瀞顕)が開祖。本尊は阿弥陀如来、寺宝は弘法大師作の十一面観音像、
選択集附画像等があります。11月末には大切な報恩講(宗祖のご命日法要)が丁重に勤修されます。
●創立縁起<説明の出所:説明石碑>
当山創立は、人皇56代、清和天皇の後胤で、第15世山田重就の三男、山田三郎泰親これすなわち
瀞顕上人である。時に弘安4年春、関東下野国高田の専修寺第三世法王、顕智上人が当地に
来錫され数日にわたり熱心に説法されたのであります。泰親はこの法縁に逢ってよく理解し感銘し
顕智上人の弟子となり法名を瀞顕と授与され更に前記高田の専修寺に至り一心不乱に浄土真宗の
教義を会得し、弘安6年春、当地に帰り堂宇を創建し、教春山本泉寺と号し、ここを浄土真宗の
念仏道場として諸人教化に専念されたのであります。ここに集まる人々は御開山親鸞聖人の教えに
帰依し、有難い説法に感激する善男善女ばかりでした。以来700年、時代の変遷により色々な風雪に
さらされながらも、歴代住職の一貫した信念「為法不為身」と檀信徒の固い団結によって今日の
当山寺門隆盛700年を迎えました
                                       昭和58(1983)年10月
                                       当山第24世 釋 良宣
本泉寺の本堂
尾張城東 西国第32番 山口観音堂(本泉寺の境内)
本泉寺浄華苑(本泉寺の境内)
境内の鐘楼と浄華苑を眺める


2020年4月26日と27日瀬戸市の東明地区を撮影
東明地区をウォーキング
赤津川にかかる風月橋の南にある大目神社の拝殿
大目神社を横から見る(左が本殿)
                   大目神社の石造鳥居
説明(出所:説明板)
市指定有形文化財
大目神社 平安時代初期の延喜式神名帳に載る古い神社で、赤津地区の氏神として
住民から敬われている。
製作年 宝暦5年(1755年)
構造 明神鳥居 花崗岩製
規模 高さ387cm
銘文 宝暦5年乙亥9月吉日
江戸時代に建立され、市内では山口地区の八幡社(1677年製)に次ぐ古いものであり、
この時代に建てられた鳥居は、2基のみで貴重な存在である。規模が大きく堂々とした風格である。
太子山万徳寺山門 <注1参照>
(聖徳太子尊像安置 太子山万徳寺と石碑に刻んである)
*大目神社から赤津川に沿って約700m西
万徳寺本堂
(右に親鸞聖人像、左に皇太子殿という建物が見える)
皇太子殿
松原下総守廣長公碑(境内にある)
愛知高原国定公園内の曹洞宗 別格地 大龍山 雲興寺の山門
雲興寺駐車場横にある東海自然歩道愛知高原国定公園のマップ
雲興寺の本堂
                 雲興寺の鐘楼(国登録有形文化財)
盗難除 性空山神御本殿 曹洞宗 別格地 大龍山 雲興寺
鐘楼前の説明板の説明
国登録有形文化財
■名称・員数 雲興寺 鐘楼 一棟
この鐘楼は、棟札によれば、天和(てんな)3年(1683)建立の鐘楼が腐朽したため、文化7年(1810)
に雲興寺第32世戒琳活乗(かいりんかつじょう)の代に再建されたもので、このときの大工棟梁は
赤津村在住の藤井甚右衛政清であった。建築面積は27.66uで、棟高は9.84m。桁行2間、梁間2間
で下層に袴腰を付けた入母屋造の桟瓦葺建物である。下層柱の上に二手先斗?(ふたてさきときょう)
を置き、上層の組高欄(くみこうらん)付の縁を支えている。上層の欄間には二重菱(にじゅうびし)や
連子(れんじ)の窓がみられ、上層柱上には、二手先拳鼻(こぶしばな)付斗?が置かれる。
瓦には地元の「赤津瓦」を用い、本件を特徴づけている。江戸時代後期の正統派大工による優作
である。梵鐘は第二次世界大戦時に供出された後、この鐘楼から不在となった。 現在の梵鐘は、
平成21年(2009)に鐘楼全体の保存修理工事が行われた際に、新たに鋳造されたものである。
                         登録年月日 平成17年12月26日
                                  瀬戸市教育委員会
雲興寺の鐘楼の西立面図
雲興寺の別の鐘楼『龍吟鐘』(高6尺 重量300貫 口径3尺3寸)


                  <注1>太子山万徳寺所蔵の資料
[境内の説明版の説明]
瀬戸市指定有形文化財(絵画)
■名称・員数『聖徳太子絵伝』・四幅
『聖徳太子絵伝』とは、聖徳太子の一代記を各年齢・事蹟ごとに描いた作品を指します。
本作は、寺伝では、寛正5年(1464)、今村城主松原廣長が寺領・田畠及び『聖徳太子伝』5巻
とともに本絵伝を寄進したと伝えるものです。当初からの作である第一・四幅が15世紀中葉
成立で、後補の第二・三幅の成立年代は不明であるが、直線で区画しない特有の簾槍霞
(すやりがすみ)の表現などから、江戸時代後半成立かと推測されます。
本作は、これまでの聖徳太子絵伝の研究に再考を促す学術的に貴重なもの
であるとともに、美術作品としての質・保存状態も極めて良好なものです。

瀬戸市指定有形文化財(典籍)
■名称・員数『聖徳太子伝』・五冊
『聖徳太子伝』は聖徳太子の伝記で、太子信仰の発展とともに多くの本が書き写されて
きましたが、本書は現在残されている多くの伝記とは異なる系統の本であり、貴重な物です。
本書の特徴は、聖徳太子の年齢によって説話を編集している点と様々な伝説・口伝を引用
している点にあります。特に後者の点では、鎌倉時代に広まったものの、現在では伝わって
いない伝記を引用しており、『聖徳太子伝』の研究に役立つものです。
また本書には、万徳寺に寛正五年(1464)に松原廣長によって寄進されたという記述があり、
中世後期の瀬戸市域における地域勢力の動きをつかむうえでも重要な資料です。

瀬戸市指定有形文化財(歴史資料)
■名称・員数『松原廣長寄進状』・一点
本資料は、松原廣長が万徳寺に寄進した『聖徳太子伝』第五冊の最終丁に書かれていたもの
を、寛保2年(1742)に抜き出したものです。本資料の前半は、寛正5年(1464)に松原廣長が
万徳寺へ一貫400文の収穫がある田畠を寄進したことが書かれており、後半には、寛保2年(1742)
に円応和尚が、虫損などの破損を恐れて『聖徳太子伝』巻尾より抜き出したことが書かれています。
本資料は、中世から近世にかけての万徳寺の経営を支える元となった重要な資料であり、同時に
寄進されたとされる『聖徳太子絵伝』『聖徳太子伝』とともに瀬戸市域の中世を知るうえで、数少ない
貴重な資料です。この三点の瀬戸市指定有形文化財は、いずれも太子山万徳寺所蔵の文化財です。

                              平成18年2月10日指定 瀬戸市教育委員会