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Seto Scenery Table
No.17- 8 for the year of 2020
No.17
No.17-2
No.17-3
No.17-4
No.17-5
No.17-6
No.17-7
No.17-9


撮影日Date photo taken

場所Place

May 18, 2020 ウォーキング(道泉地区)
May 20, 2020 ウォーキング(本地地区)
Apr.11,2020に続き2回目
May21に3回目


2020年5月18日温度25℃曇り、瀬戸市の道泉地区をウォーキングし撮影
道泉の由来』説明の出所:瀬戸市発行「ウォーキングマップ」<道泉地区編>
現在の道泉小学校建設前の窯神山の山腹には昔大きな丸窯が2基あって裏山は緑深い
松林で東は車坂から西は八ツ平や十三塚に通ずる道は大きな松並木であり、この道面へ
山からきれいな泉が流れ出ていたと云われている。この地点が今の道泉地域交流センター
が建っている所である。前方の元町、陶本町あたりは新開地の方まで田んぼが続いていた
と聞く。当時、セトモノを名古屋方面に運ぶ商人、燃料や陶土を運ぶ人たちが、この道に
流れ出た美しい水でワラジを湿らせて往復するのが常であったと伝えられている。
大正15年11月1日、現在の道泉小学校が陶原小学校から分離して第4小学校として創設
された。この頃、学校名は全県的に地名を使用するよう改正期にあった。当時の有識者が
知恵を出し合い、そして山からきれいな泉が道に湧き出ているということから「みちのいずみ」
と呼ばれており、これをとって校名も「道泉」と命名された。ちなみに、道泉小学校の校歌に
『窯神山の松のかげ・・・清き泉は湧き出でぬ・・・』とあり『道泉』の歴史の重さを感じさせている。
著本處 (「南無地蔵菩薩」と書かれた提灯が両側にある)
曹洞宗安土山道泉寺
水神
窯神神社石碑に「磁祖窯神神社 昭和31<1956>年9月建立」と刻まれている
                         窯神神社の拝殿
窯神神社
社殿:本殿(*1)と拝殿(*2)から成る
(*1)本殿: 神社で神霊を奉安(ほうあん)する社殿
(*2)拝殿: 礼拝を行う為に設けた神社の前殿
祭神: 火具土神、 菅原道真、加藤民吉
祭神ではないが津金文左衛門胤臣父子と加藤唐左衛門の碑がある。
由緒: 文化11年(1811)磁祖加藤民吉製品の完成を祈願のため大宰府天満宮と火具土神
を祀るに始まる。文化7年(1810年)53才で民吉が歿すると、文政7年(1824)、 郷人がその
偉業を徳として彼の霊を祀った。
磁祖加藤民吉出生之地の石碑
トレオン(陶鈴音)(写真中央奥に「瀬戸蔵」が見える)
古民家久米邸(新型コロナウィルスCOVID-19に起因するパンデミックの為、閉鎖中)
祠 (古民家久米邸へは写真右の細い道からすぐ)
御亭山(おちんやま)にある無風庵(右)と殉国慰霊塔
<小狭間坂(こばさまざか)を通り、古民家久米邸から無風庵へは徒歩5分>
御亭山にある民家の塀(塀は陶器の窯道具から作られている)


2020年5月20日温度25℃晴れ後曇り、瀬戸市の本地地区を2回目ウォーキングし撮影
(1回目は2020年4月11日)
   『本地城跡』 説明の出所:瀬戸市発行「ウォーキングマップ」<本地地区編>

尾張志に、「東西三五間、南北24間ばかりあり、東西2方に堀の址いささか存せり、城主は松原平内
なりと府志に見たる如し」と記されている。現在では、当時をしのぶものはほとんどない。城の南部に
弁財天を祭り、城の守護神とし崇敬された。本地域にちなんだ地名には「駒前」等が残っている。
                 本地大塚古墳 <説明の出所:説明板>
瀬戸市内に残された最も古く、最大の前方後円墳である。この土地では「誉牟治別命」の墓という
伝説があるが、昭和40年の発掘調査では、その実証となる資料は得られなかった。同51年、
瀬戸市の文化財(史跡)に指定された。
     出土遺品
1須恵器円筒埴輪 高さ40cm余り
2須恵質形象埴輪 水鳥・馬・人・家など
3須恵器 蓋坏・高坏など <漢字1つの須恵器が書いてあるが、該当する漢字は辞書にないので省略
     成立年代
この古墳の成立は出土遺品から推測すると5世紀末から6世紀初め頃と考えられる。その後市内に
盛行する群集墳に先行するものである。
     前方後円墳の規模
1中心軸の長さ 33m
2円部の直径   22.5m
3方部の幅    11.7m
城東観音廿四番霊場尾張ゑびす 曹洞宗宝生寺
                            御嶽神社
笠松のいわれは、天正12年(1584)、徳川家康と羽柴秀吉との長久手合戦の際、徳川家康がここに本陣
をおいた時、冠笠(かむりかさ)をこの松の枝に掛けて休息したところから、この松を笠松と呼ぶようになった。
この時鉄砲の音、戦場のどよめきや岩崎城を望見した家康は、急いでそれまでの陣笠を兜にかえ、御嶽山
を降りて駒前から本地川を渡り山道を通って岩作村の色金山に向かった。この参道は後年家康が通った
道ということから、権現様(徳川家康の敬称)の道即ち権現路と呼ぶようになっている。
                                          平成17年3月 尾張ゑびす大黒社
長久手合戦史跡 笠松
秋葉山常夜燈(平成元年ここへ移設)
                美保神社 出雲大社 御分社 尾張ゑびす大黒社
(両側の柱に張ってある紙には「参拝は二礼四拍手一礼で御願いします」;
 賽銭箱の左は「美保神社」右は「出雲大社」と書いてある)
尾張ゑびす大黒社の側面
大黒社の拝殿
(柱の左は「事代主大神 恵比寿さま」、右は「大国主大神 大黒さま」と書いてある)
大黒社の境内から超高層ビル ミッドランドスクエアーが見える
山念仏
天王社
左から、薬師如来、馬頭観音、お石塔様、山念仏、天王社;右端は秋葉山燈籠
本地地区を3回目ウォーキングし撮影
石柱に「松原平内公本地城跡 昭和43年5月15日建之」と刻んである
右から天王社、燈籠、石碑、弁財天、本地蔵
石碑に「『弁財天』 『白?竜神』」と刻んである
天王社(長慶寺から西へ約100m)
曹洞宗柳生山長慶寺の石柱
 (寺は発見できない。周囲は民家ばかり)