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Seto Scenery Table

 

No.17-4 Walking for the year of 2020
<2020
年瀬戸市でのウォーキング>
No.17
No.17-2
No.17-3

No.17-5

No.17-6
No.17-7
No.17-8
No.17-9


撮影日Date photo taken

場所Place

Apr.29 & 30, 2020 ウォーキング(水野地区)


2020年4月29日・30日瀬戸市の水野地区をウォーキングし撮影
                       水野の歴史
水野は緑の山々に囲まれ、町の中央を水野川が流れる自然豊かな土地です。
又古くから人々が生活を営んだ土地として、古墳や窯跡など数多くの史跡が
残っています。江戸藩政の時代には、水野代官所(1781年)や御林方役所(1667年)の
所在地として尾張東部の行政の中心地でもありました。現在、水野小学校の正門横に、
代官所跡の標柱が建っています。尾張藩の初代藩主、徳川義直公が、風光明媚な
水野周辺の山で狩りをしたと言い伝えがあります。
[説明の出所:瀬戸市発行の「ウォーキングマップ<水野地区編>」]
         正一位 稲荷大明神(通称 曽野稲荷)の第一の鳥居
曽野稲荷神社(出所:説明板)
正一位 稲荷大明神
御祭神
宇迦之御魂大神
佐田彦大神
大宮能売大神
田中大神
四大神

天慶5年(西暦942年)正一位の神階となる
1817年文化丁丑春稲荷総本宮伏見より御分霊を当稲荷山に勤請す
宗教法人 曽野稲荷神社
曽野稲荷の拝殿
曽野稲荷の拝殿の内部
「奉納 西宮えびす大神」の幟と祠
曽野稲荷の最後の鳥居
曽野稲荷の第一の鳥居の横に「瀬戸牧場 TEL0561-48-8283」の案内板がある
          愛知高原国定公園 臨済宗妙心寺派 應夢山 定光寺
定光寺観光案内(出所:説明板)
臨済宗妙心寺派に属し建武3年西?1226創建定光寺駅より1粁昔より景勝の地として
尾張嵐山と言われている
開山覚源禅師は諸国を遊歴しついに人跡未踏のこの地をこのみて日頃信仰する
延命地蔵菩薩を本尊とし教化に専念す 一夜衆僧等が定光佛の像を掘出した夢
を見 寺を定光寺と名付け山号を應夢山とす
かくて崇敬厚き当寺は世々国主の帰依特に深く350年前 尾張国主徳川義直公も
巡行狩猟の途次当寺に立寄り自ら墓と定めたのが藩祖廟所である 廟所は中国式の
儒教建築にて陳元贇(チンゲンピン)の設計である
各所の扉の彫刻及び獅子門の獅子は左甚五郎の作である
義直公に付いて殉死した9名の墓は東側に主君を守る如く並んでおります
定光寺本堂とともに藩祖廟所も重要文化財に指定
                                            山主
                         源敬公廟の入口
源敬公略歴(出所:説明板)
源敬公は家康公の第9子にして母は相応院なり慶長5年11月28日大阪城内の西の丸に生る、
幼名を五郎太のち義直と改め生母相応院とともに駿府にいた
慶長12年正月甲府25万石に封ぜられ松平忠吉公没後清州城に入り慶長15年名古屋城が竣工して
これに移り 尾張美濃信州に於て60余万石を領した
寛永3年5月権大納言に任ぜられ天下諸侯伯の首位にあり徳川3家の随一として政治を執った
平素は武事に心を留め常に深く神仏を祭り学問を好み国史を究め政治に意を用い治水産業の
発展に力を尽くした
格別練武のため水野の地に狩猟を試み定光寺付近の風光や自然を愛し、生前に自ら墓地をば
当寺に定めた
殉死者墓
廟所内には源敬公に殉死した9名の墓も祭られている
                                       昭和58年(1983年)書替
                                       定光寺執事
            定光寺の本堂へは165段の階段からなる参道を上がります。
            その入口にある石造の橋(以下は説明板の説明)
名称 瀬戸市指定文化財直入橋(ちょくにゅうばし)(建造物)
指定年月日昭和58年6月1日(1983年)
指定の理由 本市遺存する石造物としては古い時代に属するものであり、その規模は
大きく姿は愛美である。
架橋について 尾張国第2代藩主徳川光友が承応2年(1653)奉行熊谷政実に命じて架設している。
                                           瀬戸市教育委員会
            臨済宗妙心寺派小金山感應寺 (しょうきんざん かんのうじ)
(出所:説明板)
宗派 臨済宗(禅宗)妙心寺派
本尊 聖観世音菩薩
開山 天平6年(西暦734年)
開基 行基菩薩(*1参照)
・城東西国第26番霊場
・東春準四国88ケ所第73番霊場
・陶宝七福神 弁財天
地名「小金(おがね)」の縁語に因んで山号を『小金山(しょうきんざん)』とし、隣接する山上に
建つ観音堂内に安置される観世音菩薩が雨乞観音として霊験著しく、感應佛と呼ばれたことから
寺号を『感應寺(かんのうじ)』と称するようになったと伝えられる。
開山当初は天台宗に属していた歴史があり、慶長5年(1600年)当山中興開山 才庵和尚の時代に
現在の臨済宗妙心寺派に転派し今日に至る。

*1行基菩薩
668年(一般には677年)〜749年。
奈良時代の僧。河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)出身。その関係で近畿地方を中心として各地に
縁の地とされる土地や寺院が存在している。また、全国行脚中に行基が発見したとされる温泉も
数多くある。
臨済宗妙心寺派薬王山東光寺(山門の左奥が本堂)
東光寺境内の御堂と「奉納 南無薬師如来」と書かれた幟(屋根の傾斜と瓦が綺麗)
                         三社大明神社の拝殿
(出所:拝殿の前にある石碑の説明)
三社大明神社由緒(旧指定村社)
祭神
天火明命(アメノホアカリノミコト)
天香語山命(アマノカグヤマノミコト)
建穂種命(タテイナダネノミコト)
創建は明らかでないが、東谷山鎮座の尾張戸神社は遠く参詣には不便なためこの地三社大明神を建立
したと「尾張誌」にも記す。明治5年村社に列す。同40年10月26日供進指定社となる。同43年1月10日、
同村字七郎左の高倉神社と字山ノ神の山神社を本社の境内社に合祀した。
境内神社 源大夫社
例祭日 10月15日(直前の日曜日)
鎮座地 瀬戸市中水野町1丁目579番地
                                             水野辰二
三社大明神社を横から撮る(右手前が拝殿、その後ろは本殿)
                下水野八幡神社 (厄除けと合格の神様)
    境内には「牛天神うしてんじん」の像、伊勢神宮、大山祇神社、金刀比羅宮の小さな祠がある
稲荷神社(下水野八幡神社の境内)
下水野八幡神社から鳥居を見下ろす
                            水野代官所跡
(出所:石碑の説明)
後ろに水野小学校、道路に沿って近くに瀬戸市役所水野支所と水野地域交流センターがある。
水野代官所(一名を陣屋という)は春日井郡と愛知郡の一部、109箇村を治める尾張藩の地方政庁として、
天明元年(1781)この地(中水野村御鳥林)に置かれた役所である。初代の代官には当地随一の名門水野氏
の嫡流として、すでに御林方奉行職にあった水野正恭(号水野権平)が兼任を命じられた。
当時の戸口は上水野村186戸、779人。馬32頭。中水野村59戸、306人。馬7頭。下水野村72戸、307人。
馬6頭。その他曽野30戸。小曽野3戸。余床20戸。入尾10戸。岩割瀬3戸等の枝村があった。
享和2年 代官所設置後20年の資料による
                                                    加藤武信 撰文
鳥林池
(水野代官所跡から約100mの所にある)
                        八幡神社の鳥居
             拝殿への階段までに2本の道路が東西に走っている
             (出所:拝殿にある説明板の説明→字が読めない箇所あり)
             神社名 八幡神社
             所在地 瀬戸市水北町字東山畑201番地
             祭神
             成功務天皇
             應神天皇
             神功皇后
             玉依姫命
             由緒
             草創年歴不詳ナルモ延宝4年(1676)尾藩瑞竜公再覆造営
             后藩費ヲ以って修繕明治40年(1907)神餅(?)幣?料供進指定。
             昭和11年(1936)社殿新築遷宮。
八幡神社の拝殿
(屋根瓦にある置物<龍?>が大きな印象を与える)
八幡神社の拝殿と本殿(左後)
八幡神社の階段下り口から南を望む