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| No.17-6
Walking for the year of 2020 <2020年瀬戸市でのウォーキング> |
| 撮影日Date photo taken | 場所Place |
| May 4, 2020 | ウォーキング(古瀬戸地区) |
| May 8, 2020 | ウォーキング(深川地区) |
| May 12, 2020 | ウォーキング(祖母懐地区) |
| 2020年5月4日温度23℃曇り時々小雨の最中、「窯垣の小路」駐車場に駐車し 瀬戸市の古瀬戸地区をウォーキングし撮影 |
| 洞町の歴史[説明の出所:瀬戸市発行「ウォーキングマップ」<古瀬戸地区編>] 洞町は二つの山が迫った谷間の町であったことから、その斜面を利用して 登り窯を焼くには最適であり、そのため、斜面には無数の登り窯が築かれ、 中には十何連房も連なる巨大な登り窯もあり、瀬戸の陶磁器生産の中心の ひとつとなった。この洞町では、江戸時代後期には「馬の目皿」「石皿」、 明治時代に入ってからは「本業タイル」などの本業製品のベストセラーが 生み出された。今でもむかしの名残がある工場、陶芸作家の陶房などが多く 点在しており「やきものの里」としてのたたずまいが感じられる町である。 |
| 「窯垣の小路」駐車場 窯道具の「えぶた」「えんごろ」などが壁に貼り付けてある |
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| 洞 本業窯(正面) |
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| 洞
本業窯(側面) ★洞 本業窯(市指定有形民俗文化財)<説明の出所:説明板> 築造年 昭和24年(1949) 形式・構造 連房式登窯(4連房)、縦狭間(たてざま) 規模 全長14m、最大幅7m 指定年月日 平成7年2月13日 本業窯は、登窯の一種で、本業製品(陶器)を焼成する窯として、江戸時代後期から 使用されている。磁器を焼成する丸窯とともに、瀬戸を代表する窯である。 この本業窯は、この窯の上段にあった13連房という巨大な本業窯である、「奥洞窯」 の窯材を使い、昭和24年に再構築されたものである。3つの焚口(たきぐち)、 胴木間(どうざま)、捨間(すてま)、製品を焼成する4つの部屋、煙道(えんどう・コクド) から成る。 この窯では昭和54年(1979)まで、水甕(みずがめ)、水鉢、こね鉢、紅鉢(べにばち)など を年数回焼成していた。 当時の姿をとどめる本業窯は、この本業窯と、同じく「奥洞窯」の窯材を使い築造された 「一里塚 本業窯」との2基のみであり、大変貴重なものである。 瀬戸市教育委員会 |
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| 洞 本業窯の説明板の図の一部 |
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| 大昌山
宝泉寺山門 宝泉寺山門前にある「陶都の祖 渡辺幸平のこと」の石碑に刻んである文章: 渡辺幸平は江戸時代末期から明治初期にかけて今日の瀬戸ノベルティの源と なった陶彫の技巧を確立した陶工である 手捻りの原型にヘラを用いた陶彫を 導入 その技法は後の六代川本半助 瀬戸陶器学校教員寺内半月らに受け継がれ 原型製作と鋳込成形法の発達によって瀬戸地方は日本一のノベルティと袋物の 産地となった 「琴々堂」「鶴鳴」と号し 神仏像に秀作を残した 代表作に1867(慶応3年) 建立した陶祖碑台座の唐獅子がある 出身は讃岐国の士族で高松藩主松平侯の 近習役のとき ゆえあって京都に逃れ鋳銅型師となったが陶芸修得を志し 瀬戸の人 で清水焼の井上松兵衛に身を寄せた その後 松兵衛の口添えで瀬戸の加藤三年 川本半助の陶房に移って白磁に無釉の陶彫に練達 後進の指導に当たった 清貧無欲の人で米飯 酒 茶は好まず専ら粥に梅干の粗食を常とした 1872(明治5年)没 享年不詳 生涯独身であった 墓碑は弟子と有志が建立したが古くなり1960(昭和35年) 瀬戸ノベルティ業界等の有志によって復元された その石碑が再び老朽化したため 1998(平成10年5月)その碑を修復した |
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| 宝泉寺の本堂 |
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| 宝泉寺の鐘楼 鐘楼の左奥の木札には「大圓鏡智・平等性智・妙観察智」などを書いてある |
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| 天神社 (右横は宝泉寺の塀;宝泉寺に隣接し、荒れて、手入れがあまりされていないようだ) |
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| 窯垣の小路沿いの民家の鬼板の土留 説明陶板に「景観重要建造物第2号 鬼板の土留 平成24年10月11日 瀬戸市」と表記 |
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| 窯垣の小路と案内板 案内板は「窯垣の小路、窯垣の小路ギャラリー、洞街道」とムクノキを説明している ムクノキ椋の木-ニレ科 <出所:案内板の説明> 花5月 実10月 山野にはえる落葉高木。材は折れにくく、また割れにくいため、陶磁器製品を運ぶための天秤棒 として利用される。 洞ではあちらこちらに見られるムクノキはその昔、天秤棒として利用するため に植えられたものといわれている。このムクノキをたずねて歩くと、その付近に必ずといってよいほど 古窯があったとされる。また、今なお窯を操業しているところもあり、ムクノキを線で結ぶことによって、 今昔にわたる洞の窯場密集地域を知ることができるとも考えられる |
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| 「窯垣の小路ギャラリー」 コビット19(新型コロナウィルス)によるパンデミックで閉館中 |
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| その横の民家の塀の美しい木々 |
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| 「窯垣の小路資料館」 コビット19(新型コロナウィルス)によるパンデミックで閉館中 |
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| 弥蔵観音・弥蔵弘法 弥蔵観音由来<説明の出所:説明板> 天保2年3月27日戒名梅心妙量信女なる人が「できもの」で苦しみ「私が死んだら祭っておくれ。 きっとなおしてやる」といってなくなった。天保4巳年4月観音像を弥蔵ヶ峯に祭りその後7月18日を 縁日として祭礼が行われてきました。爾来霊験あらたかなため参詣者が絶えません。 向かって右側の弘法大師は慶応3辰年5月29日東洞町の加藤弘三郎なる人が腹痛のため28才で 死去した。遺言として「腹痛に苦しむ人を助けたい」と言っていたので、その翌年、弥蔵観音と並び 祭られました。従前は、現地より東方約300米の地点にありましたが、参詣が不便のため道路の改修 により昭和36年7月18日命日に現在の場所に遷宮したものであります。 五社奉賛会 |
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| 洞窯跡の杜の案内板 洞窯跡(ほらかまあと)<説明の出所:説明板> 現在地から一段上の斜面上には、連房式登窯が構築されていた。平成24年7月に行われた 調査では、窯の胴木間(どうぎま)と呼ばれる燃焼室から煙道部分にあたるコクドまでが確認され、 窯体の規模は全長約25m、幅約7mとなることが明らかにされた(ロープで囲まれた部分が 窯跡の推定範囲)。部分的な調査であったため、製品を置いて焼くための部屋(一の間、二の間など) の数は明らかではないが、推定で12房となると思われる。こうした規模は、瀬戸では江戸時代以降、 陶器生産に使われた「本業窯」と呼ばれる連房式登窯に一般的にみられるものである。 江戸時代以降、瀬戸で使用された連房式登窯はこの他にも「丸窯」や「古窯(こがま)」と呼ばれる窯炉 が知られている。丸窯は江戸時代後期以降、大型の磁器製品の生産に使用され、各部屋の幅や奥行、 高さは本業窯のそれと比べて大きいものの、その数は5・6房となる。一方古窯は明治時代以降みられ、 小型の磁器製品を焼成した。各房の幅や奥行が狭く房数も3〜4房と少ないのが一般的である。 調査において窯内から出土した遺物は、ほとんど江戸時代末期の染付椀や皿といった磁器製品で あったが、窯体の規模から推定すると本窯跡では、江戸時代末期の磁器生産が、本業窯で行われた 可能性が示されたといえる。また、確認された窯体の下には別の窯体が埋まっていることが明らかに なった。これは、同じ場所で窯の改修が何度も行われたことを物語っており、近世から近代の瀬戸窯業隆盛 の一翼を担った洞町を象徴しているといえる。 |
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| 洞窯跡の説明板の一部 |
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| 白龍神社 左に石碑「白龍大明神」があり、右の祠には「津島神社神札」が置かれている |
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| 2020年5月8日温度24℃曇り時々晴れの最中、瀬戸市の深川地区をウォーキングし撮影 |
| 深川神社拝殿 深川神社の社殿は拝殿、幣殿、本殿、神楽殿、宝物殿及び社務所から構成される。 社記によると「宝亀元年(771)勧請申伝候」とあり「延喜神名式」(905-927年)に山田郡深川神社とある。 ★[国宝こま犬]説明の出所:瀬戸市発行「ウォーキングマップ」<深川地区編> 陶祖 藤四郎作と伝えられ、大正2年(1913)に国宝に指定、昭和25年(1950)重要文化財に指定されている。 鎌倉時代の作とみなされ灰釉の狛犬で我が国における陶狛の大宗とされる逸品である。古くは雌雄(阿吽)一対 であったが、そのうち1個が盗難にかかったといわれていて現在は、吽形だけである。その胎土は緻密で 堅く焼けしまり、ヘラ(箆)の跡も鋭くたて髪は櫛目を使って美しい。全体に淡黄緑色の灰釉を施し、その姿は 雄渾で精悍の気にあふれている。残念ながら前肢を神社火災時(約200余年前)に損傷し現在は一部木製と なっている。 |
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| 陶彦社(深川神社境内) 瀬戸陶業の始祖、加藤四郎左衛門景正が祭られている。 |
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| クスノキ(深川神社境内) <説明の出所:説明板>風を受けると聞こえる音は、クスノキの葉がふれあってささやくはなし声のようです。 伊勢湾台風(1959)に耐え百年以上も生きてきた弓なりの木姿。雄々しい幹に触って撫でてください。この木 のパワーが伝わってくる気持ちになります |
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| 深川神社古墳
時代 6世紀後半から7世紀前半 <説明の出所:説明板> 瀬戸川中流域で唯一残存する横穴式石室を持つ古墳である。直径9mの円墳で。石室は平面形が若干胴の 張った長方形をなし、最大幅1.74m、石室入口は奥壁から手前まで4mであるが、本来はもう少し長く石室が あったものと思われる。同時期の他のほとんどの横穴式石室は奥壁に一枚岩を設置するが深川神社古墳は 奥壁・側壁ともに一辺50cm以上の大型の石材を三段に積み重ねている。発掘調査は行われていないため、 出土遺物等については不明である。(文化庁遺跡分布図No.2726) |
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| 市杵島社(いちきしま) <説明の出所:説明板> 当社の由来 今から1200年前の昔からここ池田に8人の神様を祀りました世にこれを深川天神と云いこれが現在の 深川神社です その一人に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で俗に弁財天と呼ばれる神様が当社 の祭神です 商売の守護神として困って居る人々を救い財物を与え願い事を叶えるあらたかな神様として 古くから多くの人々にあがめ親しまれてまいりました 昭和11年改修がなされ今日の姿になって居ります 当社の祭礼 毎年5月1日 市杵島社 |
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| 市杵島社を横から見る |
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| 紫雲山 法雲寺 本堂 手前右に加藤高明翁 「御手植え松」がある *加藤高明(愛知県海部郡佐屋町出生) 三菱財閥岩崎家の養子となったが、岩崎姓を取らなかった。大正13.6.11−大正15.1.28の597日間 24代目首相として在職。就任時年齢は 64歳。首相在職中病死した。 |
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| 法雲寺の鐘楼 |
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| 陶製梵鐘
市指定有形文化財 <説明の出所:説明板> 製作年 昭和17年10月(1942) 規模 高さ 115cm 直径79cm 製作者 工場主 佐藤志津吉 主任 清水善作 依頼者 本田千秋(代務住職) 製作理由 武器作製ノ為メ第二ノ御奉公ニ應召セリ両人ニ依頼シコレ作製セリ(刻文の一部より) 第二次世界大戦中の金属回収令(1942年)による不急品適用範囲の拡大で、寺院の仏具・梵鐘類 も強制供出になった。当寺は、梵鐘供出と同時に製陶所へ代用品の作成を依頼し、製作したものが この陶製梵鐘である。瀬戸市に一口あるのみで、おそらく全国的にも皆無と言える貴重な資料である。 |
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| 陶製梵鐘実測図 (上記説明板の一部) |
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| 陶泉山泉秋寺 |
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| 浄土宗解脱山放光寺 |
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| 陶祖公園(北側) ★1 陶祖公園の南側には陶祖の加藤藤四朗の偉業を称える六角陶碑である陶祖碑が祭ってあります。 この陶祖碑は慶応3年(1867)に完成した高さ約4m、六角の各面の幅約60cmで大小30個の陶器から成って います。高さ285cmの志野焼燈篭は陶製燈篭としては国内最大級の大きさで瀬戸市の有形文化財として指定。 約1年の歳月をかけて焼き上げ完成。陶祖碑の前方下段に左右一対が明治5年(1872年)3月設置されました。 ★2 陶祖藤四朗 鎌倉時代に僧道元に従い、宋(中国)に渡り、陶業技法を学び、帰国。 瀬戸で良質の陶土を発見し、瀬戸で 窯を開き瀬戸陶業の発展の礎を築いたとされている人物。毎年4月の第3土曜と日曜には藤四朗を偲び ’陶祖まつり’が催されます。(2020年は新コロナウィルスCOVIT19によるパンデミックで中止) |
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| せとっこファミリー交流館 |
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| 2020年5月12日温度28℃晴れ、瀬戸市の祖母懐地区をウォーキングし撮影 |
| 『祖母懐』 説明の出所:瀬戸市発行「ウォーキングマップ」<祖母懐地区編> 鎌倉時代に道元禅師に従って中国に渡った加藤四郎左衛門景正が陶業技法を学んで帰国した後、 陶土を求めて日本各地を探し歩き、ようやく瀬戸の地で良質の陶土を発見、窯を開き陶業の礎を 築いたと言われている。祖母懐とは「うばがふところ」とも呼び、三方を丘陵に抱かれた南向き の日当たりの良いおだやかな所を指し、特に祖母懐土と名付けられた良質の陶土は、江戸時代 尾張藩主、徳川光友の時には藩御用窯専用とし一挙に採取、私用を禁じられたようである。 毎年4月には「陶祖、藤四郎」を偲ぶ「陶祖まつり」が行われます。 *2020年は新型コロナウィルス(中国武漢発)によるパンデミックの為、中止。 |
| 瀬戸蔵 |
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| 瀬戸市新世紀工芸館 |
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| 石神社 年貢が免除される除地。瀬戸五社に含まれる。 祭神:猿田彦命 <以下の説明の出所:説明板の説明> 祭神:猿田彦命又の名大土御祖神 由緒: 創建年月は不明。その昔、この社を「さいの社」と呼んでいたと近在の古老は云う。 さいとは塞が訛ったもので、つまり塞神を祀る社であった。塞神は辻辺境にあって災害を防ぎ止る神 である。道反大神岐大神に起因して石神と同意である。これらは古くから道祖神信仰庚申信仰の 民間信仰に結びついておりこの民間信仰に深いつながりをもつ猿田彦命がいつしか当石神社の 祭神として祀られたものと思われる。良縁・安産・子育等に霊験ありと古くより信仰される。 |
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| 瀬戸市マルチメディア伝承工芸館・瀬戸染付研究所 入口プレートには「瀬戸染付工芸館」となっている。 |
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| 高野山真言宗城見山興龍寺 |
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| 一里塚本業窯(正面) |
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| 一里塚本業窯(側面) 一里塚本業窯(市指定有形民俗文化財)<説明の出所:説明板> 築造年 昭和25年(1950) 形式・構造 連房式登窯(4連房)、縦狭間(たてざま) 規模 全長約16m、最大幅9m <ウェブ作者→洞本業窯よりやや大きい> 指定年月日 昭和50(1975)年7月21日 本業窯は、登窯の一種で、本業製品(陶器)を焼成する窯として、江戸時代後期から使用されている。 磁器を焼成する丸窯とともに、瀬戸を代表する窯である。この本業窯は、東洞にあった13連房という 巨大な本業窯である、「奥洞窯」の窯材を使い、昭和25年に再構築されたものである。3つの焚口 (たきぐち)、胴木間(どうぎま)、捨間(すてま)、製品を焼成する4つの部屋、煙道(えんどう・コクド) から成る。この窯では市の指定を受ける昭和50年(1975)まで、火鉢、水甕(みずがめ)、すり鉢など を年3回程度焼成していた。当時の姿をとどめる本業窯は、この本業窯と、同じく「奥洞窯」の窯材を使い 築造された「洞 本業窯」との2基のみであり、大変貴重なものである。 瀬戸市教育委員会 |
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| 秋葉神社の拝殿 |
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| 秋葉神社の常夜燈(瀬戸市指定有形文化財) <以下の説明の出所:説明板の説明> 瀬戸市内で確認されている江戸期建立の常夜燈のうち最も大型である。基礎上段に反発や火袋を 支える中台には請花が刻まれ、笠の頂上の宝珠は豊かに張り、先端がとがっており、棹の四面に 刻まれている文字の彫りが深く美しい。 平成13年2月7日指定 瀬戸市教育委員会 |
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| にじの丘学園(瀬戸市立にじの丘小学校・瀬戸市立にじの丘中学校)の校門 |
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| にじの丘学園の校舎の一部 |
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