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Seto Scenery Table

 

No.17-7 Walking for the year of 2020
<2020
年瀬戸市でのウォーキング>
No.17
No.17-2
No.17-3
No.17-4
No.17-5
No.17-6
No.17-8
No.17-9


撮影日Date photo taken

場所Place

May 14, 2020 ウォーキング(下品野地区)


2020年5月14日温度30℃晴れ、瀬戸市の下品野地区をウォーキングし撮影
         説明の出所:瀬戸市発行「ウォーキングマップ」<下品野地区編>
下品野の祇園祭 - その由来をたずねて -
1 祇園祭の本家は、京都の八坂神社です。その別名が祇園と呼ばれ、その祭礼が祇園祭です。
 起源は869年といわれます。
2 この地方での祇園祭は、豊橋・西尾・新城・名古屋等。その本家は津島市の津島神社です。
3 初めは「島」ごとの祭りが、昭和40年頃、火の見下に統合され、火の見下の社に津島神社
 と書かれた大きな幟が立ちます。

- 瀬戸地方の夏祭のトップを飾る祇園祭 -
何時頃、どうして始まった祭りなのか定かではないが、200年以上も前から続く古里の伝統ある
祭りです。本格的な夏を迎える前の7月第3土曜日、午後6時から10時近くまで、国道248号線は
品野坂上から品野駅まで通行止めとされ、無病息災を願い、秋への五穀豊穣を祈って繰り広げ
られます。
坂上に勢揃いする隊列は、先頭に下品野小の鼓笛隊その後に万灯車、続いてお神輿、踊り手の
集団、そして山車、最後尾にお囃子方の車と続く。
祭りは、品野音頭を中心に唄いあげられる名調子に呼応して、山車を曳く男衆の掛け声も勇ましく
浴衣姿の女衆の踊り姿も軽やかに、軒端の堤燈の火影も揺れて夜は更けて行きます。
神明社の鳥居 
鳥居前の両側の石灯籠には「神明宮」と刻まれている
神明社の拝殿・本殿への階段
神明社の拝殿
神明社の本殿
(左に3つの社<天神社、山神社、?原社>がある)
陶祖社と天白社(神明社の境内にある)
陶祖社と天白社の後ろにある2つの社(名前は不明)
神明社の拝殿横にある石燈籠(市指定有形文化財)
                   上記石燈籠<出所:説明板の説明>
製作年 明暦4年(1658)
構造 花崗岩製六角形円柱型
由緒 瀬戸市内に現存する石燈籠の中で最も古いものの一つで、江戸時代
    下品野村の有力な窯屋の寄進による
銘文 明暦4年 戊戌林鐘吉日
              奉壽進御寶前
              下品野村 村上長次郎寄進
                                 瀬戸市教育委員会
                    曹洞宗 龍洞山 久雲寺の山門
東海49薬師霊場第37番札所
山門の前にある両側の石碑には各々、「山門禁葷酒」、「三界萬霊寺」と刻まれている。
曹洞宗 別格地 大龍山 雲興寺の山門の前にある石碑と同じ文字。
久雲寺の本堂
                  曹洞宗 洞谷山浄源寺の山門
縁起<出所:石碑に刻まれた説明>
宗派 曹洞宗
本尊 白衣観世音菩薩(行基作)
開基 行基菩薩
開山 永享2年(1430) 天先祖命大和尚
庭園 本堂裏はもみじを主体とした廻遊式築山池泉式庭園に茶室、紅於亭がある
沿革 聖武天皇の病気平穏のため行基菩薩は白衣観音 千手観音 薬師如来の三躰を
    彫刻し岩屋堂の石室に安置し読経 およそ700年後雲興寺二代天先祖命大和尚
    はこの地に白衣観音を本尊として浄源寺を建立
安置 豊川稲荷天 聖観音 薬師如来 地蔵尊
                                                当寺 山主
浄源寺の本堂
浄源寺の鐘楼
                  東海自然歩道の案内板
愛知高原国定公園「岩屋堂」の駐車場から徒歩で岩屋堂の祠へ行く途中の案内板。
岩屋堂は東海自然歩道にあります。瀬戸市には雲興寺や定光寺も愛知高原国定公園
となっており、東海自然歩道にあります。西から定光寺・岩屋堂・雲興寺と続き、更に
雲興寺の東の猿投山(豊田市;猿投神社がある)まで東海自然歩道で結ばれています。
                       岩屋堂の祠
岩屋堂の由来
<出所:祠の前にある石碑に刻まれた説明文>
紳亀二年(725)名僧行基が当地に来て草庵を結び、この岩屋内で三体の仏像を彫刻し、
時の聖武天皇の病気平穏を祈願した霊跡であり、一体の薬師瑠璃光如来を本尊として、
岩屋山薬師堂が建立され諸堂を完備し信仰をあつめている。小鳥たちも宝前に木の実
を供えたといい鳥原という地名の由来がある。
★ 岩屋山薬師堂を略して岩屋堂という
★ 目耳の病護に霊験あらたか
★ 現在は浄源寺の奥の院です
★ 大祭は十一月末の日曜日に浄源寺で厳修

<以下は洞内部にある説明書の説明文>
●薬師瑠璃光如来御真言
 オンコロコロセンダリマトウギソワカ
●御薬師様の霊力
 仏様の教えを沢山聞ける様、健康な体にしてくださいます
●"目" "耳"の仏様
  お薬師様です 
          浄源寺
大和信貴山御分霊 毘沙門天王の石碑と社
(岩屋堂の祠の上で暁明ケ滝の横付近にあります)
暁明ケ滝
(写真上;岩屋堂の祠から80m位北)
                    加藤新右ヱ衛門 翁の像
岩屋堂の祠の80m位南にある
<出所:像の前の説明板>
翁は弘化4年(1847)品野町下品野亀 加藤新右ヱ衛門家の嫡男に生れ18歳にして父親
の死に遭い伝家の生業を継いで本業を営んだ。明治初年地方に先駆け新製染付焼に
転じ4室の丸窯を築き青燕脂などの新絵手法の新製品を出したり、顔料を用いた盛絵手法
など次々と創意工夫を怠らなかった。明治36年頃より石炭焼成の有利なのを知り、独力を
以って研究に着手。同38年失敗に失敗を重ねて焼成法を会得した。その焼成に自信を得る
や瀬戸美濃地方の業者に呼びかけ普及に努めた。築窯から焼成まで自ら手をとって指導して
廻り、当時、白いものが石炭で焼けるはずが無いと本気で考えていた業者たちは暫く容易に
従わなかったが一途な翁の呼びかけに識者の認めるところとなり、明治の末には相当な
石炭窯が当地に煙を吐いて活発な生産を始め画期的に高まるに至った。
その生産額も画期的にその頃から盛んになった輸出磁器は殆ど石炭窯によったものである。
昭和5年瀬戸陶磁工商同業組合はかくたる翁の功績を認め銀杯1個を贈って労苦に報いた。
翁は大正元年業を男辰太郎に譲り趣味の作陶に余生を楽しんだが昭和14年9月25日、92歳
の長寿を以って終わった。
法名 陶庵玄道居士 その累代の父祖と共に浄源寺に永眠している。
                           昭和31年7月1日
                           加藤唐九郎 校
                           戸田 紋 平記
□平成25年9月吉日
岩屋堂ライトアップ 品野つくし会 再書明記す。
案内板
           岩屋堂公園内の鳥原川を少しせき止めた自然のプール
新型コロナウィルス・パンデミックの最中、多くの家族連れなどが近郊の市外から来ています。
如来様 (鳥原町デイサービスセンター付近の道路の両側に祠などがある)
左の祠の隣の石塔には「庚申塔」と刻まれている
村社八幡社の鳥居
八幡社の拝殿